「日本ナショナリズムの源流」

 「日本ナショナリズムの源流」(橋川文三著作集2 筑摩書房)読了。どうも最近の小泉首相の発言を聞いていると、一人でチキン・レースをしているように感じます。(断崖めがけて全速力で車やバイクを走らせ、止まった地点が崖に近い方が勝ちという我慢比べレース) いやはや彼と一緒に海の藻屑になるのはまっぴらごめんです。早々にご退職されて、私人としての立場で、柳条湖へ行って「靖国神社を参拝してどこが悪い」と好きなように叫んで下さい。
 それにしても彼の一連の発言は、有権者の支持を得られるという見通しの上でなされていると考えます。それぐらい、ナショナリズムがわれわれの間で高まっているのでしょうか。政府への支持を集めるためにナショナリズムを煽ると、加熱・沸騰したナショナリズムによって政策を縛られ国家理性を喪失してしまう。何度も何度も何度も繰り返された、歴史から学ぶべき教訓です。実際、中国でもソ連解体+東欧の民主化という激動に対して、江沢民政権が国内の同様を抑えるために行過ぎた愛国反日教育をほどこしました。その大きなつけを今払っているのだと思います。歴史的事実を伝えた結果、反日感情を抱くのはやむを得ないでしょうが、反日感情を煽りナショナリズムを掻き立てるための歴史教育は問題だと思います。もちろんだからといって、日本の戦争責任から目をそむけるのは筋違いですが。いずれにせよナショナリズムという魔物についてきちんと考えないといけないなと痛感しています。
 さてこの本は日本思想史の研究者である橋川文三の、日本ナショナリズムに関する論考です。「F.シューマンが、ヨーロッパ文明におけるナショナリズムの発生について「たえまない自己追求の努力をつづける西欧人にとっても、恐らくそれは決して十分に理解することのできない謎の一つである」と記しているそうです。その難問に挑んだ試論を集めたのが本書。結論から言ってしまえば、「近代ナショナリストとは、ネーションの鏡の中に映る己れの美貌に陶然とするナルシズムにほかならないといわれるが、我国におけるそのような鏡に相当するものは、実に現人神として一般意志を象徴する天皇にほかならなかった」ということです。それは「何か大いなる力、あるいは崇高なる権威に所属しているという一体感の意識、いいかえれば一種の幸福の意識」とも表現されています。ワールドカップ・ドイツ大会出場を喜ぶサポーターのみなさんの恍惚とした表情をみていると実感でします。その大いなる力・崇高なる権威とは、戦前では(あるいは今でも)「日本的なるもの」「日本文化」「国体」「天皇制」と考えられたものです。ところがこうした言葉はあまりにも多義的かつ曖昧なものであった。併録された「柳田國男」の中で、氏はこう述べています。「彼は世の指導者たちが、日本的ということを説きながら何が日本的かを調べようともしないではないかという憤りをいだいていたと見てよいであろう。」 よく日本的なるものを知らないで/知ろうとしないで、真に日本的であろうとするとその当否は「その主体的意欲の大きさ―「精進」の深さや激しさによって相対的に決定されるしかない」ということになります。怒号の声の大きさや、非日本的とみなされたものへの攻撃力の大きさによって、測られるということですね。鋭い指摘です。
 日本のナショナリズムを考える上で、大変参考となる好著です。紹介しておきながら無責任なのですが、残念ながら品切れです。古本屋のサイトでこまめに探していれば、必ず入手はできると思います。
by sabasaba13 | 2005-06-22 06:11 | | Comments(0)
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