イタリア編(38):ウッフィツィ美術館(12.8)

 時刻は午前八時半すこし前、そろそろ予約しておいたウッフィツィ美術館の入館時間です。美術館の前にある事務所でチケットを受け取り、入口へ。もうすでに長い行列ができていましたが、私たちはすぐに入ることができました。転ばぬ先の杖、やはり予約をしておいて正解でした。
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 もともとはトスカーナ大公コシモ1世の治下、フィレンツェの諸官庁(イタリア語でウッフィツィ)を統合するために建てられたもので、設計はジョルジョ・バザーリ、1584年に完成しました。やがて分散していたメディチ家代々の美術品をここに収蔵することになり、メディチ家最後の相続者より、一般に公開することを条件に1737年トスカーナ大公国に寄贈され、1861年イタリア統一王国成立後は国家管理となった次第です。言わずと知れたルネサンス芸術の宝庫、以前に来館した時は団体旅行ゆえ駆け足で引きずりまわされたのですが、今回はじっくりと拝見いたしましょう。まずはボッティチェッリの『春』と『ヴィーナスの誕生』、やはりこれを見なくては始まりません。時刻が早いためか展示室の人影はまばら、心ゆくまで清新なこの二作品を楽しむことができました。それにしても後者におけるヴィーナスの、痛々しげにさえ見える愁いの表情は何故なのでしょう。これについては会田雄次氏が、『世界の歴史7 近代への序曲』(中公文庫)の中で的確に教示してくれています。
 カトリック信仰と不信心のあいだをさまよう典型の一人にボッティチェリ(1444‐1510)がある。…ところで読者は、このヴィーナスが、ギリシアのヴィーナスとちがって何か痛々しいような、その裸体を見るとき、見てはならないようなものを見ているというような感じを持たれないだろうか。じつはこの点が、古典時代とルネサンスとの、人間の肉体の表現上たいへん差異のあるところなのだ。キリスト教は肉欲を罪とし、肉体を悪魔の棲家だと教えた。ギリシアやローマの世界にはこの意識はない。ギリシアの神々やニンフたちは、アルカディアの野に天真爛漫に全裸でたわむれている。彼女たちが人目をはばかって胸や前をかくすしぐさをするのは、ただ恥かしいからである。ヴィーナスの彫刻などでは、その動作がかえって女体をなまめかしくさせ男心を誘う。
 しかしボッティチェリのヴィーナスは、もうそのようなヴィーナスではない。太陽を知らぬその青白い膚は、キリスト教が薄ぐらい部屋の奥に一千年間とじこめておいた若い女性のものである。自分の肉体が罪だということをいやというほど教えこまれた女なのだ。人眼にさらされることを必死になって恥じつつ、しかもあまりの恥かしさに立ちすくみ、しかも一方、自然のこのうえない心地よさに恍惚として我を忘れている。このヴィーナスは正直にいってあまりみごとなものではない。首が長すぎ、肩がおちすぎ、何か病気をしているように見える。ペーターという批評家など萎黄病にかかったなどとひどいことをいっている。しかしこの畸型がこのようなことを私たちに感じさせ、不思議な魅力をこのヴィーナスに与え、それが永遠に人をひきつけるのである。
 ルネサンスの人々は、はじめて人間の肉体の美しさを知り、それを、教えこまれた罪の意識に対抗しつつ追及していったのである。ボッティチェリは、きわめて気の弱い敬虔なカトリック教徒であった。罪の意識におののきながらも、この世のたのしさや美しい女性にひかれてやまなかったルネサンス人の一つの典型であり、この絵もそういう芸術の典型である。ルネサンスの美術は、みな人体美の表現をその主目的にしているが、それにはみなこのような心の闘いが含まれていて、それがそういう闘いのなかった古典時代や、現代の肉体の表現などとは異なった魅力を与えているのである。(p.85~7)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-12-25 06:16 | 海外 | Comments(0)
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