『秋葉原事件』

 『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』(中島岳志 朝日文庫)読了。2008(平成20)年6月8日(日)に秋葉原で発生した通り魔事件(7人が死亡、10人が負傷)はいまだ記憶に新しいところです。本書はその犯人である加藤智大がなぜ犯行に及んだのかを、生い立ちから事件直前までじっくりと見つめたものです。著者は気鋭の思想史・歴史学者、中島岳志氏、『中村屋のボース』(白水社)はたいへん面白うございました。それにしても何故この事件を取り上げたのか。プロローグで、氏はその思いを語っておられます。
 彼の軌跡をじっくりと追究することで、事件の背後に潜む現代社会の問題を見つめる必要がある。そうしなければ、この事件は単なる「ネタ」に終わってしまう。時代と向き合うチャンスを逃してしまう。(中略)
 おそらく同時代に生きる私たちは、加藤の中にわずかでも自己の影を見てしまうだろう。加藤の痛々しさと、自己の痛々しさがオーバーラップする部分があるに違いない。そして自分の身の回りにいる彼・彼女の姿を、加藤に歩みの中に見るに違いない。
 その胸の痛みから、私たちはスタートするしかない。そして世界と他者と自己と対峙しなければならない。面倒くさいことだが、そこから始めるしかない。そうしないと、大変なことになってしまうような、そんな予感がある。どうしようもない切迫感が、私にはある。
だから、加藤智大をじっくり見つめたいと思う。
これからの世界を生きるために。社会の破裂を食い止めるために。(p.22~3)
 "社会の破裂"、この本を理解するためのキーワードですね。しかと銘肝しましょう。
 著者は、彼の人生を克明にたどっていきます。母の厳しすぎる教育と過度の介入、内面を見せることが苦手な性格、不満を言えず行動でアピールするパターン、キレやすい性格、突発的な暴力性、勉強の挫折、学歴へのコンプレックス、非モテ、外見、掲示板への没入、ベタのネタ化とネタのベタ化、承認欲求、借金、家族崩壊、職場放棄、地元からの逃亡、先輩や友人への裏切り、満たされない性欲、不安定就労、派遣切り、ニセ者、荒らし、無視、孤独、不安…。もう読んでいるだけで息が詰まってきます。その中で、私が一番心痛んだエピソードです。
 母は、作文の中で1文字でも間違えたり、汚い字があると、書き直しを命じたという。しかも、間違えた箇所を消して書き直すのではなく、すべてはじめからやり直すという徹底ぶりで、一つの作文ができ上がるのに1週間ほどかかった。
 兄弟は、この行為を密かに「検閲」と呼んでいた。
 母が「先生ウケ」をねらっていることは、子供の目にもはっきりとわかった。母はテーマや文章、絵の場合は構図に至るまで、こと細かく指示を出した。(中略)
 この「検閲」には、「10秒ルール」というものがあった。作文を書いている横で母が「この熟語を使った意図は?」といった質問をし、「10、9、8、7…」とカウントダウンする間に答えられないと、ビンタが飛んできた。
 ここで母が求めたのは、やはり「先生ウケ」する答えだった。そのため、兄弟は常に「教師にウケること」を意識して、作文を書かなければならなかった。母は「10秒ルール」によって、教師のまなざしを兄弟に内面化させ、規律化していった。大切な言葉を奪った。(p.46~7)
 ここまで「弾」がこめられれば「引き金」は何でもよく、後は発射を待つだけです。ここで中島氏が問題とするのは、この「弾」のうち、彼が主体的に選択したのが何で、社会が強いたのは何かということです。たとえ彼のパーソナリティにどんな問題や欠陥があっても、社会からかけられる大きな負荷がなければ、あのような犯行にはおよばなかったのではと思います。その負荷とは何か。私なりにまとめると、それは交換可能な存在として扱われ、自分のかけがえのなさを実感できず、社会に居場所がないこと。派遣労働者だった彼は、誰でも務まる代替可能な仕事をこなし、簡単にクビを通告され、各地を転々とせざるをえない。アパート周辺のコミュニティとは切断され、立ち寄る店は、コンビニと牛丼チェーン店、そこに会話や人間関係などありません。中島氏はこう述べておられます。
 加藤にとって、社会から切り離されて孤立することは、生きる動機の喪失を意味した。しかしどうしていいのかわからない。
 私たちはそのような社会に生きているということを、もう一度、客体視しておく必要がある。そして、この加藤のリアリティを直視することから始めなければならない。
 秋葉原事件から5年。問題は何も解決していない。
 だから、私は加藤智大のことを、ずっと忘れない。
 加藤が「しまった」「もっと生きていればよかった」と心底悔しがるような社会をつくることが、この本を書いた私の責務だと思う。
 加藤君、僕は君を徹底的に後悔させるために、がんばるよ。(p.271~2)
 さて、それではどのような社会をつくればいいのか。そもそも社会がこのようになったのはいつなのか、そしてその原因は何か。残念ながら氏の分析はなされていません。蟷螂の斧、私なりに考えると、グローバリゼーションの深化にともなう「企業の論理」の浸透ではないでしょうか。人間を使い捨てにして直近の利益を最大にすることしか眼中にないのが、現今の企業のやり方だと思います。今期・来期の利益が上がれば、百年後、いや十年後の日本がどうなってもしったこっちゃない。国民を保護することの見返りにその忠誠を要求してきたのが国民国家ですが、企業の利益を最優先にして国民を食い物にしはじめた。国民国家の解体がはじまったのだと、内田樹氏は『街場の憂国論』(晶文社)の中で述べられています。中島氏が言われた"社会の破裂"とはこのことではないでしょうか。時事通信(2013.10.18)によると、就職活動をした学生のうち2割が活動中に自殺を考えたことがNPO法人「自殺対策支援センターライフリンク」の調査で分かったそうです。このままだとほんとうに大変なことになってしまう、氏の切迫感を共有します。
by sabasaba13 | 2014-01-06 06:13 | | Comments(0)
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