イタリア編(48):サン・フランチェスコ聖堂(12.8)

 それでは、人波とともに中に入ってみましょう。まずは上部聖堂へ、なるほど上部に位置する大きな窓から光が降り注ぎ、天井は高く柱列のないおおらかな空間は、まるで大講堂のよう。そして両側の壁面下部を、ジョットが描いた28のフレスコ画、『聖フランチェスコの生涯』が飾っています。ちょっと高い所にあるので細部が見づらく写真撮影禁止なのが残念ですが、リアルな空間表現や人物の自然な感情表現を堪能いたしました。やはり白眉は「小鳥に説教する聖フランチェスコ」。足もとに群れ集う小鳥たちに、慈愛に満ちた面持ちで語りかける彼の姿が心に響きます。しかし疑問に思うのは、なぜ小鳥に説教をしなければならないのかということ。小鳥たちが悔い改めるべきことをしたとか、罪深い存在であるとは思えないのですが。やはり人間を自然界における優位な存在と考える、キリスト教思想の影響なのでしょうか。最近読んだ『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書2100)の中で、概略、橋爪大三郎氏は次のように述べられています。一神教では、神は世界を創造したあと、出て行ってしまった。世界のなかには、もうどんな神もいなくて、人間がいちばん偉い。神がつくったこの世界に対する主権を、人間は神から委ねられている。空き家になった地球を人間が管理・監督する権限がり、その権限には自由利用権も含まれている(p.312~3)。うーむ、なるほど。しかしその思想が、近現代における環境破壊・自然破壊をもたらしたと思えば見過ごすことはできません。サティシュ・クマール氏は、その思想が暴力の文化を生み出したとまで論及されています。『君あり、故に我あり』(講談社学術文庫)から引用しましょう。
 これ(※種の優越主義)は、人類が他の種よりも優れている、と考える思想である。人類以外の種に対する暴力はしばしば見過ごされている。これがあらゆる種類の動物や森林や野生生物に対する深刻な危害の原因となっている。この、人間が優れているという姿勢こそが暴力の文化の根源である。自然を支配することに始まる二元論的思考様式は、人間に対する支配につながる。権力に取り憑かれたこの思考様式が市場を支配し、その市場を守るための兵器を作り出す。…私たちは、すべての生命の根源的な一体性を認識し、それに対する畏敬の念を持たなければならない。(p.188)
 この絵に、そうした流れの端緒を見出すのは穿ちすぎでしょうか。もちろん、もう一つの流れとして、平和の希求や人間への博愛を説く思想があったことは認めます。しかし「人間中心主義・人間優越主義」が、そうした流れをも圧倒しているのが現在の世界ではないでしょうか。そろそろこうした思い上がりを捨て去り、人間は万物の上に君臨する存在ではなく、自然や動植物とともに生きていくしかない弱い存在なのだと気づくべき時が来ているし、今気づかないとすべては手遅れになってしまうのだと考えます。なお『逝きし世の面影』(渡辺京二 平凡社ライブラリー)を読んで、江戸時代の人びとがそうした考えをもっていたことを知って驚きました。
 なるほど日本人は普遍的ヒューマニズムを知らなかった。人間は神より霊魂を与えられた存在であり、だからこそ一人一人にかけがえのない価値があり、したがってひとりの悲惨も見過されてはならぬという、キリスト教的博愛を知らなかった。だがそれは同時に、この世の万物のうち人間がひとり神から嘉されているという、まことに特殊な人間至上観を知らぬということを意味した。彼らの世界観では、なるほど人間はそれに様がつくほど尊いものではあるが、この世界における在りかたという点では、鳥や獣とかけ隔たった特権的地位をもつものではなかった。鳥や獣には幸せもあれば不運もあった。人間とおなじことだった。世界内にあるということはよろこびとともに受苦を意味した。人間はその受苦を免れる特権を神から授けられてはいなかった。ヒューマニズムは人間を特別視する思想である。だから、種の絶滅に導くほど或る生きものを狩り立てることと矛盾しなかった。徳川期の日本人は、人間をそれほどありがたいもの、万物の上に君臨するものとは思っていなかった。(p.505)

by sabasaba13 | 2014-01-11 06:17 | 海外 | Comments(0)
<< イタリア編(49):ペルージャ... イタリア編(47):サン・フラ... >>