『サンチャゴに雨が降る』

『サンチャゴに雨が降る』_c0051620_195349.jpg "もう一つの9・11"をご存知でしょうか。1973年9月11日にチリで起きた、ピノチェトによるクーデターです。以下、ウィキペディアから引用します。
 1970年の大統領選挙により、人民連合のアジェンデ大統領を首班とする社会主義政権が誕生した。これは世界初の民主的選挙によって成立した社会主義政権であった。アジェンデは帝国主義による従属からの独立と、自主外交を掲げ、第三世界との外交関係の多様化、キューバ革命以来断絶していたキューバとの国交回復、同時期にペルー革命を進めていたペルーのベラスコ政権との友好関係確立などにはじまり、鉱山や外国企業の国有化、農地改革による封建的大土地所有制の解体などの特筆すべき改革を行ったが、しかし、ポプリスモ的な経済政策は外貨を使い果たしてハイパーインフレを招き、また、西半球に第二のキューバが生まれることを恐れていたアメリカ合衆国はCIAを使って右翼にスト、デモを引き起こさせるなどの工作をすると、チリ経済は大混乱に陥り、物資不足から政権への信頼が揺らぐようになった。さらに、極左派はアジェンデを見限って工場の占拠などの実力行使に出るようになった。
 こうした社会的混乱の中で1973年9月11日、アメリカ合衆国の後援を受けたアウグスト・ピノチェト将軍らの軍事評議会がクーデターを起こしてモネダ宮殿を攻撃すると、降伏を拒否したアジェンデは死亡し、チリの民主主義体制は崩壊した。翌1974年にピノチェトは自らを首班とする軍事独裁体制を敷いた。
 アメリカ政府と企業の利益を妨害する勢力を抹殺するための介入、アメリカ十八番の国家犯罪の一つだと理解していたのですが、最近読み終えた『ショック・ドクトリン』(ナオミ・クライン 岩波書店)で、もっと深い意味があったことがわかりました。今、世界を奈落の底へ落しつつあるいわゆる新自由主義、「公共領域の縮小+企業活動の完全自由化+社会支出の大幅削減」という三位一体の政策を、チリに押しつけるために仕組まれたクーデターだったのですね。その黒幕には、アメリカ政府・CIA・アメリカ企業がいたことは論を俟ちませんが、新自由主義の教祖ともいうべき経済学者ミルトン・フリードマンが育てた弟子たち「シカゴ・ボーイズ」がいたことは見過ごされています。ナオミ・クラインは、新自由主義という経済的ショック療法を実施するための素地としてクーデターというショックを与え、さらに拷問というショックにより反対勢力を沈黙させる、つまり三つのショックを組み合わせて新自由主義的経済政策を強要するというはじめての生きた実験がなされたのがチリであったと指摘されています(p.99)。この"ショック・ドクトリン"はその後近隣諸国で、そして30年後のイラクでもくり返される。つまりチリ、新自由主義という反革命の、そして恐怖の起源であったと述べられています。
 この事件のことをもっと知りたいと思い、そういえばこのクーデターを描いた『サンチャゴに雨が降る』という映画があったことを思い出しました。通信販売でDVDを手に入れ、鑑賞。これは凄い映画だなと感服した次第です。監督はエルビオ・ソトー、アジェンデの知己でクーデターの際に即座にフランスに亡命したということなので、当事者と言ってよいですね。そこでプロデューサーのジャック・シャリエと出会い、協力してこの作品を、何とクーデターの二年後(1975年)に完成させました。(フランス映画として制作されたため、会話はフランス語) その志に共感したジャン=ルイ・トランティニャンなどの俳優はノーギャラでの出演を快諾。都市の真ん中で戦車が走り砲撃を行なうようなシーンを撮影するために、ブルガリアで撮影が行なわれたそうです。なお哀愁をたたえた音楽にも魅惑されたのですが、作曲は、アストル・ピアソラでした。
 映画は、1970年9月4日にアジェンデ政権が誕生したシーンを回想としてまじえながら、クーデターの過程を緊迫感にあふれた映像で追っていきます。滅多に雨が降らない首都サンティアゴ、「本日、サンティアゴは雨です」というラジオ・ニュースがクーデター決行の合図でした。クーデターへの加担を拒否する一部の兵士、容赦なく彼らを処刑する軍上層部。大統領官邸に襲いかかる軍隊、そして砲撃をする戦車隊。武器を手にして最後まで抵抗するアジェンデと側近たち。彼がラジオ放送で行なった、チリ国民への最後の言葉は実際の音声で挿入されています。なおこの最後の放送は「ユー・チューブ」で聞くことができ、その内容は「マスコミに載らない海外記事」というサイトで知ることができます。そしてアジェンデの死(自殺説が有力)。さらに学生たちが立てこもる大学を攻撃する軍隊、戦車による攻撃で屈服する学生たち。首謀者を銃殺し、とらえられた学生たちをスタジアムに並ばせる兵士たち。たった一人で革命歌「ベンセレーモス(我々は勝利する)」を歌い殴打される学生、その歌に唱和せず怯えたように見つめる学生たちの姿が印象的でした。こうした一連の過程で、随所にちらつくアメリカの影をほのめかす演出も秀逸です。そしてノーベル賞受賞者でアジェンデ政権を支持し続けた詩人、パブロ・ネルーダの訃報が入ります。その葬列で力強く「ベンセレーモス」を歌う人びとの姿とともに、映画は静かに幕を閉じます。
 そう、この映画の主人公は…"暴力"です。民意を踏みにじり荒れ狂う圧倒的な暴力を前にして、私たちは何ができるのか。もし自分がこうした状況に置かれたら何をなすべきなのか。深く考えさせられる映画でした。アジェンデは最後の放送で、「犯罪が犯されたのです。歴史が彼らを裁きます」と言っていました。この犯罪を記憶し、それを裁く歴史のささやかな一翼を担うこと。できうればそこから始めたいと思います。

 なおこの映画の細部にはさまざまなメッセージが仕掛けられており、それを読み解くのも勉強になりました。例えば、クーデターの直前、アジェンデの側近の家に「ジャカルタ 死」と記された紙で包まれた礫が投げ込まれます。これは1965年、インドネシアで起きたスハルトのクーデターを意味しているのでしょう。多国籍企業の利益を否定し自国経済の保護を優先したスカルノを排除するために、CIAやアメリカ国防総省がスハルトを全面的に援助し、50~100万人の「共産主義者」が殺害されたという残虐なクーデターですね。なお前掲の『ショック・ドクトリン』によると、アジェンデ政権転覆を画策した人々にとってこのクーデターは恰好の研究材料となったようです。容赦ない恐怖と大規模な弾圧を先制的に行なえば、国全体が一種のショック状態に陥り、抵抗勢力を排除できるということ。そしてフォード財団の資金でアメリカに留学した学生たち(「バークレー・マフィア」)が、スハルト政権でテクノクラートの地位を占め、インドネシアを多国籍企業に対してきわめて開放的な環境へと転換させたということ(p.93~7)。つまりチリにおけるクーデターのプロトタイプであったわけですね。
 また、たった一人で革命歌「ベンセレーモス」を歌い殴打された学生のモデルとなったのは、スタジアムで虐殺された伝説的フォーク歌手ビクトル・ハラであること。兵士たちは、彼が二度とギターを弾けぬように両手を打ち砕き、銃で44回撃ったそうです。
 パブロ・ネルーダは、チリの国民的詩人であり、私の大好きなガブリエル・ガルシア=マルケスが「どの言語の中でも20世紀の最高の詩人」と称えていること。9月11日にアジェンデ政権がピノチェトのクーデターによって滅ぶと、軍事政権はネルーダの家に押し入り、調度品を破壊し蔵書を破り捨て、徹底的に家を破壊しました。ネルーダはこのことで絶望し、病状は急激に悪化したといわれます。クーデターの12日後、ネルーダは危篤状態に陥り、病院に向かいましたが、途中の軍の検問で救急車から引きずり出されるなどして、病院に着いたときには亡くなっていました。この二人については、あらためて調べてみたいと思います。

 さあ次は、このクーデターを舞台とした映画『ミッシング』を見ましょうか。
by sabasaba13 | 2014-01-23 06:18 | 映画 | Comments(0)
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