イタリア編(82):ウィーン(12.8)

 そうこうしているうちに搭乗の時間となりました。飛行場内を移動するためのバスに乗って降りると、ひさかたぶりのプロペラ機。ぷるんぷるんと元気にプロペラをぶんまわし、午前11時ごろ離陸しました。
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 しばらくすると、まるで雪を戴いたような険しい山々が見えてきましたが、あれがきっとドロミテですね。Auf Wiedersehen! 配られたお菓子と飲み物をいただいていると、やがて平地となり、短冊型に整地された畑地が続くともうウィーン(Vienna)は間近です。
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 12時ちょっと過ぎに、飛行機はウィーン国際空港に着陸。
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 ターミナルの手荷物受取所で荷物が出てくるのを待っていると、壁面に大きな楽譜が描かれているのに気づきました。どりゃどりゃと近づいてみると、さすがはウィーン、レハールの『メリー・ウィドウ』の譜面でした。こいつは夏から縁起がいいわい、私、挿入歌「唇は黙っていても」が大好きなんですもの。
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 ふるぼけたトランクとしょぼくれたテニス・バッグを受け取り、税関を通り抜けて到着ホールへ。『地球の歩き方』によると、市内への移動手段はリムジンバス(Vienna Airportlines)、シティ・エアポート・トレイン(CAT)、Sバーンの三種類があるそうですが、移動距離が短いということでリムジンバスを選択。売り場でチケットを購入しましたが、そうそう、ウィーン・カード(Wien Karte)を買っておきましょう。市内の交通機関が72時間乗り放題になり、さらに主要博物館の入場料が割引になって、お値段は18.50ユーロというすぐれもの。なおリムジンバスも割引になることを後で知った山ノ神、「なんてもったいないことをしたの」と落ち込んでいました。そういう「六日知らず」なところに惚れたのさ。
 バス乗り場には、恥じらうことなく臆することなく灰皿が堂々と置かれていました。お言葉に甘えて一服、喫煙に寛容なオーストリア、大好きです。バスに乗り込みいざ出発、車内に貼ってあったピクトグラムは、「静かに」「大きな荷物は持ち込むな」ということでしょうか。
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 二十分弱でシュヴェーデンプラッツ(Schwedenplatz)に到着。ここで地下鉄U4に乗り換えです。ここモルツィン広場にあるのが、以前に来た時も気になった、石にはさまれた男の銅像です。とりあえず今回も撮影しておきましたが、最近読んだ『観光コースでないウィーン 美しい都のもう一つの顔』(松岡由季 高文研)でその由来が判明しました。第二次大戦中、ここにはナチスのゲシュタポがあり、ナチスに抵抗したオーストリア人が収容され、処刑されたり強制収容所へと送られたりした場所だったのですね(p.22)。これはその記念碑、よって男は囚人をあらわし、上部の石には"NIEMALS VERGESSEN(二度と忘れない)"と記され、その両側にはダビデの星(ユダヤ人)と逆三角形(政治犯)が刻まれています。なおオーストリアはナチス・ドイツによって併合された被害者であるという見方は、本書によると正確ではないようです。ナチスおよびホロコーストに荷担し、戦後もその歴史や記憶を封印し続けてきたのですね。以下、私の文責による本書の要約を記します。
 もともとハプスブルク帝国の時代から、"文化の一部"と言われるほどユダヤ人への嫌悪感は烈しいものがありました。そして世界恐慌による不況の中で、ユダヤ人は搾取、失業、生活苦などのすべての責任を「社会悪の元凶」として押しつけられることになりました。知的分野で成功をおさめていたユダヤ人たちに対する妬みも日に日に大きくなりました。また、経済的チャンスを求めてウィーンにやってくる貧しいユダヤ人が増えていくことにも、ウィーン市民はいい顔をしませんでした。経済が低迷していたオーストリアでは、その原因と責任を、自分たち以外の何かに見つけなければやりきれないような状況だったのです。1938年にヒトラーがオーストリアを併合したとき、多くのオーストリア人が歓迎したのは、ヒトラーがオーストリア人の心の中にある望みを解決してくれるに違いないと考える人が多かったからです。ヒトラーの反ユダヤ主義を受け入れる土壌は、この時代すでに多くのオーストリア人の中に根づいていました。ユダヤ人を追放し、あるいは強制収容所へと移送することによって、商店の主人はユダヤ人への借金を帳消しにでき、ビジネスマンや大学教授はユダヤ人と競争しなくてもすむようになり、追い出されたユダヤ人の家が廉価で市場に出回るなど、多くのオーストリア人が何かしら経済的なメリットを得ていました。戦後、オーストリアでユダヤ人問題を放すことがタブー視されることになった原因の一つです。結局、オーストリアにいた約20万人のユダヤ人のうち、約6万5千人がホロコーストによって殺されています。なおこのウィーンにおけるユダヤ追放政策を実践したのは、オーストリアに育ったアドルフ・アイヒマンだったのですね。オーストリアにおけるナチ党員の割合は約10%、これはドイツの約7%を上回っており、オーストリア国民のナチ政策への加担はきわめて大きかったことがわかります。
 戦後、オーストリア人は表面的にはナチスやホロコーストを批判してきましたが、心のどこかでナチズムやホロコーストに共感する人々も少なくありませんでした。第二次世界大戦中にナチスに加わっていた政治家、弁護士、教授、医師などの多くは、その地位を追われることなく戦後も同じポストにとどまりました。これに対して非難する人々は多くはありませんでした。若者から老人まで、ナチスにかかわった人があまりに多かったために、政府は元ナチスの登録者を処罰の対象として社会から遠ざけておくよりも、早く社会の一員として復帰させ、新生オーストリアの社会と経済を復興したいと考えていたのです。そこで、重罪者と軽罪者とに分けて、ほとんどの人が軽罪者であったとして恩赦を受けることができるようにしました。そして重罪者のみを処刑することで、ナチスの問題は片付いた、として幕を下ろそうとしたのです。
 しかしオーストリアの人々にとって衝撃的な事件が起こります。1986年の大統領選挙中、候補者のワルトハイム氏(元国連事務総長)がナチスに関わっていたことが暴露されたのです。しかしワルトハイム氏は国民によって大統領に選ばれました。これに対して、オーストリアという国全体が過去への批判を欠落させているとして激しい国際的非難が起こり、国民はさすがにショックを隠しきれませんでした。しかし、この非難の中で、オーストリア国民は自分たちが過去の清算を十分にやっていないことに気づき、長い間にわたって無視してきた「過去」に取り組む努力を始めたのです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2014-02-26 06:20 | 海外 | Comments(0)
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