イタリア編(83):ウィーン(12.8)

 以上、拙い要約でした。というわけで、戦後のオーストリアと日本には、戦争責任からの逃避と歴史の忘却という点で類似したところがあるのですね。しかし大きな違いは、国際的な批判を契機に、歴史に対して真摯に向き合う努力をはじめたことです。日本の場合は、教科書問題や慰安婦問題という批判を受けても、今に至るまで歴史から眼を背け続けています。さきほどの飛行機内でもらった新聞「FINANCIAL TIMES」に、"Anti-Japan protests flare across China as crisis deepens over disputed islands"という記事が載っていましたが、尖閣諸島や竹島をめぐる問題にも、日本のそうした態度に対する怒りや憤懣が反映されているのではないのでしょうか。ここで疑問に思うのは、何故、オーストリアに対しては国際的(というよりは欧米による)批判が沸き起こったのに、日本に対してはそれが起こらないのか、という点です。欧米、特にアメリカら歴史問題に対する批判が起きたら、属国である日本は慌てふためいて態度を変えるはずなのに。ここで思い出すのは、エメ・セゼールが「帰郷ノート/植民地主義論」(平凡社ライブラリー)の中で述べている言葉です。
 彼らがヒトラーを罵倒するのは筋が通らない。結局のところ、彼が赦されないのは、ヒトラーの犯した罪自体、つまり人間に対する罪、人間に対する辱めそれ自体ではなく、白人に対する罪、白人に対する辱めなのであり、それまでアルジェリアのアラブ人、インドの苦力、アフリカのニグロにしか使われなかった植民地主義的やり方をヨーロッパに適用したことなのである。(p.138)
 白色人種を虐殺した白色人種は許せないが、黄色人種による黄色人種の虐殺には関心がないということなのでしょうか。
 論点が少々ずれましたが、オーストリアと日本における歴史教育の違いについて、一言。2000年5月に出されたオーストリアの前期中等教育の教育課程基準では、教育の目的を次のように掲げています。
 普通教育学校は、知識の獲得と能力の開発、そして価値の伝達につとめるものであり、その際には自立的かつ批判的な思考が特に促されることになる。(中略)普通教育学校での授業は、人権を守る義務を負った民主主義に積極的に貢献しなければならない。自ら判断し、批判し、決定し、行動する能力を育むことが、多元的で民主主義的な社会の安定にとって決定的に重要である。生徒たちは、ますます国際化する社会のなかで、世界に対する開放性を教えなければならない。
 日本の中学校学習指導要領、歴史的分野の目標は以下の通り。
 歴史的事象に対する関心を高め、我が国の歴史の大きな流れを、世界の歴史を背景に、各時代の特色を踏まえて理解させ、それを通して我が国の伝統と文化の特色を広い視野に立って考えさせるとともに、我が国の歴史に対する愛情を深め、国民としての自覚を育てる。
 "自ら判断し、批判し、決定し、行動する能力"を重視する国と、"国民としての自覚"を重視する国。ま、日本という国家は、判断と決定を人任せにし、批判も行動もしない国民を育成したいのでしょうね。そして、「所得の多い家庭の子どものほうが、よりよい教育を受けられる傾向」を「やむをえない」と考える人が52.8%を数えるわが日本(朝日新聞2013.3.21朝刊)、いよいよ日本は奈落の底へ動き出したようです。ね、安倍伍長。

 本日の二枚です。
c0051620_6194840.jpg

c0051620_6201650.jpg

by sabasaba13 | 2014-02-27 06:21 | 海外 | Comments(0)
<< イタリア編(84):市立公園(... イタリア編(82):ウィーン(... >>