『セプテンバー11』

c0051620_6293312.jpg 『11'09''01 セプテンバー11』という映画をご存知でしょうか。2002年に制作されたオムニバス映画で、2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件をテーマに、フランスのプロデューサー、アラン・ブリガンが、世界11ヵ国/11名の映画監督にショートフィルムを製作させたオムニバス映画です。「2001年9月11日」を「11.9.01」として、映画を11分9秒+1コマに収めるという条件だけを課した以外は、それぞれの監督が自由に映画を製作できるという試みです。テレビ放映された時に見たのですが、この事件についてきちんと考えなければならないなと思う今日この頃、もう一度見てみたいと思っていました。インターネットで調べたところ、幸い通販で購入できることがわかったので入手し、ひさしぶりに鑑賞しました。
 11人の監督は以下の通りです。イランのサミラ・マフマルバフ、フランスのクロード・ルルーシュ、エジプトのユーセフ・シャヒーン、ボスニア・ヘルツェゴビナのダニス・タノヴィッチ、ブルキナファソのイドリッサ・ウエドラオゴ、イギリスのケン・ローチ、メキシコのアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、イスラエルのアモス・ギタイ、インドのミーラー・ナーイル、アメリカのショーン・ペン、そして日本の今村昌平です。
 いずれも面白く興味深い短編映画でした。ただすべての作品に共通していると思えるのは、この9・11が、特別な大事件ではないという視点です。理不尽な暴力とそれによる多くの犠牲者、この事件をそうとらえれば、これは世界の各地で普遍的かつ日常的に起きている事態なのだということです。アメリカおよびいわゆる"先進国"からは不可視の事態ですが。そしてその責任の一端は(あるいはほとんどは)、アメリカを筆頭とする"先進国"にあるという視点です。
 心に残った作品は三つです。まずはボスニア・ヘルツェゴビナのダニス・タノヴィッチの作品。登場人物であるボスニアの女性ムスリムたちは、毎月11日にデモを行なっています。何故か? これはインターネットで調べてわかったのですが、1995年7月11日、セルビア人に殺された夫や息子7,000人を追悼するためのデモだったのですね。いつもどおり集まった彼女たちの前に、テレビは「9・11」のニュースを映し出します。デモに出ることを躊躇する彼女たちですが、主人公の女性は、戦争で両足を失った車椅子の知人男性と二人きりでデモを行ないます。ふと振り返ると仲間の女性たちが後に続いていました。「デモを続けないと。彼らと私たちのために」という呟きとともに。9・11の犠牲者と、世界各地の理不尽な暴力による犠牲者が等価となった瞬間ですね。
 二つめは、今村昌平の作品。アジア・太平洋戦争の戦場で凄惨な体験をした兵士が、精神に異常をきたして復員します。彼は蛇と化し、身をくねらしながら地を這い、鼠を食べ、そして村人に追われて川の中へと消えていきます。最後にあらわれるテロップは「聖戦なんかありゃしない」。戦争を賛美すること、そして人間であることへの強烈な嫌悪と抗議。その射程は、9・11以後に行なわれるであろう戦争への批判をもふくんでいます。
 最後に、イギリスのケン・ローチの作品です。主人公は亡命しているチリ人の男性、彼が「もう一つの9・11」について手紙を書き、アメリカ人に問いかけるという内容です。そう、1973年9月11日に起きたチリのクーデター、アメリカの援助を受けたピノチェトがアジェンデ政権を軍事力で崩壊させた事件ですね。詳細については、『サンチャゴに雨が降る』と『ミッシング』の拙映画評をお読みください。被害者である前に、まず加害者としての立場を自覚せよ、その上で二度とこういう事件が起こらぬよう手を取り合おうというメッセージだと思います。

 実は9・11が起きた時、私は茫然自失しました。なぜこのような事件が起きたのかまったく理解できなかったからです。その後、この事件が起きた理由を知るために、そしてその背景にある世界のあり方を考えるために、けっこう勉強するようになりました。凡百な人生を送ってきた者ですが、私なりに生き方が変わる転機となった出来事です。その頃むさぼり読んだ『現代思想10月臨時増刊 これは戦争か』(2001 vol29-13)からいくつかの文章を引用して筆を置きます。
 アメリカの平和は、他の場所で起こっている破滅的事態で贖われていた。ここにこそ爆撃の真の教訓がある。それがここで起こらないようにする唯一の方法は、それが他のどこであれ起こるのを防ぐことなのである。(スラヴォイ・ジジェク p.21)

 個々人の安全の崩壊は、アメリカ国民にとって初めての衝撃であるかもしれないが、それはいまや現実となった。それは、世界の他の多くの地域において、すでに現実のものだったのである。(イマニュエル・ウォーラーステイン p.33)

 そしてとりわけ、次の黄金率を忘れてはなりません。これこそ、国際関係における天秤になるはずです。すなわち、平等への希望、です。一人の人間がもう一人の人間と同じ価値を持つ、ということ。(ベルトラン・バディ p.63)

 覚えておこう。一般市民を攻撃したり、空襲したりすることは犯罪、つまり殺人罪、である。今までもそうだったし、今もそうだし、これからもそうだ。(ダグラス・ラミス p.137)

by sabasaba13 | 2014-04-28 06:29 | 映画 | Comments(0)
<< 言葉の花綵102 『マイケル・コリンズ』 >>