越後編(18):旧齋藤家別邸(13.3)

 まずは主屋へ、数寄屋造りを基調とした近代和風建築ですが、贅を尽くした意匠や趣向、欄間や建具に驚かされます。
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 凝った意匠の引手を、眼を皿のようにして眺めて写真におさめていると、ボランティア・ガイドさんがやってきて「気づきませんでした」と驚愕されました。
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 また庭園全景を展望できるように設計され、庭園と建物が融合した「庭屋一如」の空間となっています。
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 それではお庭を拝見させていただきましょう。面積約4,500平方メートルの敷地内に、玄関庭、中庭、そして広大な主庭があり、それぞれ園路で結ばれています。主庭は回遊式で、自然の砂丘地形を上手に活かした斜面にしつらえてあり、歩きながら主屋と池を眺められるようになっています。高低差のある斜面を利用して水の流れや滝を設けられ、巨石や奇石が配置され、さまざまな植栽がほどこされていました。最上部には独立した茶室「松鼓庵」と茶庭があります。これといった特徴はないのですが、たいへん趣味のよい、ほっとするようなお庭です。
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 庭師は二代目松本幾次郎と弟の松本亀吉、前者はわが敬愛する小川治兵衛(植治)と並び称される方だそうです。そしてこの庭のコンセプトは「自然主義的風景式庭園」、主屋にあった解説より転記します。
 明治時代までの古典的な日本庭園は、浄土や禅といった精神的なものを表現したり、鶴亀の庭や三尊石組のように一定の約束事に基づいて庭石や植栽を配置したりするなど、象徴的・形式的な作り方が主流でした。これに対して、西洋文化の影響を受けていた近代数寄者たちは、自然のなかにある心地よい景観を写実的に庭園に取り入れることを理想としました。そういった新しい庭園の様式を「自然主義風景式庭園」と呼びます。
 2代松本幾次郎・亀吉が作庭した旧齋藤家別邸の庭園は、構図が分かりやすく、雄大でのびのびとしています。特に主庭は、季節感をベースに陰影のある奥山の風景や野辺の明るさを基調とした、誰にもわかる美しい自然が表現されています。これらは、近代数寄者の影響を受けながら、2代幾次郎・亀吉が生み出した自然主義的な作風と言えます。このような作風は、「雑木の庭」の創始者である飯田十基や小形研三らに引き継がれました。
 飯田十基(1890~1977)は、2代幾次郎や岩本勝五郎に師事し、2代幾次郎の下で渋沢栄一邸、阪谷芳郎邸、岩本の下では山縣有朋の邸宅である椿山荘、古希庵などを手懸けました。大正7年(1918)に独立した飯田は、武蔵野の雑木林を取り入れた数寄屋の庭を数多くつくり、自然主義風景式庭園の潮流を大きく発展させました。その弟子である小形研三(1912~1988)は、昭和時代に「雑木の庭」を庶民の庭として定着させ、さらに雑木を公共造園に組み入れて全国的に普及させました。
 旧齋藤家別邸庭園にも見られる自然主義風景式庭園の潮流は、現代の庭園スタイル「雑木の庭」を誕生させる先駆けとなっています。
 なお「近代数寄者」とは、茶の湯や骨董収集に熱心な明治の財界人・政治家たちで、益田孝(鈍翁)や高橋義雄(箒庵)が代表的な人物です。彼らの庭に対する考えが、幾次郎・亀吉に大きな影響を与えたのですね。余談ですが、益田孝が佐渡の出身だとはじめて知りました。というわけで、庭園についてはまだまだ勉強すべきところがたくさんあります。生涯の楽しみとしてつきあっていきたいと思います。2代松本幾次郎・亀吉、岩本勝五郎、飯田十基、小形研三、小川治兵衛、重森三玲、そして小堀遠州、まだ見ぬ名園を求めて明日も旅ゆく。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-19 06:23 | 中部 | Comments(0)
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