越後編(53):出雲崎(13.3)

 良寛記念館に入り、自由闊達・天衣無縫な彼の遺墨を拝見。文字というのはこれほどにも、書いた人の人柄をあらわすものなのですね。目の前にカチカチと浮び出るフォントの味気なさが胸に沁みます。なお私の大好きな小川芋銭が、良寛の代表的な長歌の一つ「月の兎」を描いた絵に出合えたことは幸甚でした。芋銭も良寛のような生き方をしていたのかもしれません。記念館の近くあったのが「世界一の巨木硅(※珪)化木」。
越後編(53):出雲崎(13.3)_c0051620_655128.jpg

 そして良寛さんが最も愛し長く住んだ五合庵を模してつくられた耐雪庵がありました。間口二間、奥行一間半の、良寛好みの茅屋です。
越後編(53):出雲崎(13.3)_c0051620_6552914.jpg

 というわけでいろいろと考えさせられるひと時でした。もし良寛さんが現在にあらわれて、安倍晋三伍長と対談をしたらどうなるだろうという妄想にもかられます。国民の信託を受けて、膨大な官僚制組織と軍事的組織をもち、重層的で大げさな国家機構をもつこの執行権力、網膜のように日本社会の肉体に絡みつき、そのすべての毛穴を塞いでいるこの恐ろしい寄生体を操るこの御仁。おそらく定まらぬ虚ろな視線で、官僚諸氏の作成した文章をまくしたてるでしょう。「アメリカのパシリとなって戦争がしたい」「国民から税を巻き上げて大企業にばらまきたい」「企業さえ儲かれば国民生活なんてどうでもいいんだ」「放射能被害は黙認して原発を片っ端から再稼働して経済成長まっしぐら」「国民のストレスは中国・韓国・北朝鮮にぶつけさせろ」「愛国心を愛国家権力心と誤解させろ」などなど。良寛さんは、悲しそうな微笑みを浮かべてながら「この世さえ うからうからとわたる身は 来ぬ世のことを何思ふらむ」とぽつりと言って消えていくのではないかな。

 さてそれでは出雲崎の町へとおりていきましょう。コンクリートでがっちりと作られたトンネルのような階段には、子どもの字で「ありがとう学び舎 ありがとう通学階段 通学階段ができた日昭和42年10月23日→通学階段が役目をおえる日平成12年3月31日 今までありがとう」と書いてありました。おそらく、高台の上に通学する子どもたちを雨や風雪から守るために、地域が尽力してつくったのでしょう。そして平成12年に閉校になったために、通学階段として使われなくなったのですね。ということは…あーだから元号はやなんだ。昭和42年は西暦1967年、平成12年は西暦2000年、33年のお役目を終えたわけです。通りすがりの貧相な旅行者ですが、私からも労いの言葉を捧げたいと思います。ご苦労様でした。でも少子化および地方財政の悪化によって小学校が潰されたのですから、きっと良寛さんも草葉の陰で悲しんでおられると思います。
越後編(53):出雲崎(13.3)_c0051620_6555591.jpg

by sabasaba13 | 2014-08-04 06:56 | 中部 | Comments(0)
<< 越後編(54):出雲崎(13.3) 越後編(52):良寛と夕日の丘... >>