オーストリア編(14):カール・ルエガー記念碑(13.8)

 カール・ルエガーはウィーン工科大学の用務員の子として生まれながら、刻苦精励ウィーン大学を卒業して国会議員になり、やがてウィーン市長にまで上りつめました。彼は古色蒼然としたウィーンを近代都市に変貌させます。映画『第三の男』で有名な壮大な下水道は1860年代にはすでに完成されていましたが、さらに全市にガスを行き渡らせ、電気を供給し、ガス灯や市電も普及させます。ヒトラーも厄介になった貧民救済施設の建設にも積極的で、その支持層は彼自身の出身階級である手工業者や商人あるいは未熟練労働者から成る下層中産階級であり、禁欲的なつましい生活を続け、熱心に教会に通い、どこまでも実直でまじめで敬虔で保守的なカトリック教徒でした。そして忘れてはいけないのが、こうした実直な人々こそが最も過激な反ユダヤ主義者だったことです。
 彼はキリスト教社会党を率いてまず国会に進出し、そこでもユダヤ人を攻撃して憚りませんでした。「ユダヤ人が誰であるかは私が決める」とは、彼の有名な台詞です。しかし、ウィーン市長選に打って出るころから、その過激な姿勢を改めます。当時のウィーン市長は市民によって直接選ばれますが、最終的には皇帝が承認することが条件でした。ユダヤ人をはじめ多民族から成っているハプスブルク帝国を維持するにはこうした露骨な反ユダヤ主義の主張は好ましくないとして、フランツ=ヨーゼフは三度も彼の承認を拒否したのです。そして四度目にしてやっと彼をウィーン市長として承認しました。
 さて、ウィーンには、さらに過激な反ユダヤ主義者であり「汎ドイツ主義運動」を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラーがいたのですが、彼はカトリックを敵に回してブルジョワ階級だけを支持基盤としていたためその勢力は弱体化していきます。当時ウィーンにいてこうした動きを観察していたヒトラーは、個々の政策よりも、カール・ルエガーのような大衆を惹きつけるカリスマ性こそが重要なのだと結論付けます。著者の中島氏は、ルエガーの「まれに見る人間通」(『わが闘争』)や「賢い戦術家」(同書)ぶりにヒトラーは脱帽し、学んだのではないかと分析されています。あらゆる人間の心理状態を見抜き、そのうえで人の心をつかむ天才的能力、それこそがヒトラーの「成功」の要因であったのではないか。ルエガーの葬儀(1910.3.10)を見たヒトラーは、『わが闘争』のなかでこう述べているそうです。
 強烈な印象を与える葬列が、亡き市長を市庁舎からリンクのほうへ導いていったとき、私もこの悲劇を観る数十万の人々の中にいた。内的感動に揺さぶられながら、同時に、この男の仕事もまた、この国を滅亡に導く必然によって無益とならざるをえなかったのだ、という感じをもった。カール・ルエガー博士がドイツに生まれていたら、彼はわが民族の偉大な人物の列に並んだであろうに。彼がこの無能な国で働いたということが、彼の仕事と人生にとって不幸であった。
 そう、このカール・ルエガーの顕彰碑が、ウィーン西駅前に一目を憚らず堂々と屹立しているのですね。なお中島氏によると、ウィーン大学前のリンクも「カール・ルエガー博士リンク」のままだそうです。(『地球の歩き方』で確認すると…ああ確かに) 歓呼をもって迎え入れたヒトラーは歴史から抹殺し、彼の師とも言うべきルエガーは歴の記憶にとどめる。ウィーン市民の反ユダヤ意識はそれだけ根深いということなのでしょうか。ファシズムと反ユダヤ主義の関係を完全には清算しきれていないように思えます。もちろん、天皇の命のもとに戦えば、A級戦犯であろうと、どんな非人間的な行為(強姦・一般市民の殺戮・放火・略奪…)を行おうと、英霊として祀る神社を有する私たちは、とても批判できる立場にはありませんが。過去の歴史とどう向き合うのか、それを考えるうえで是非多くの人に訪れてほしい場所です。

 なおこれは帰国後にわかったのですが、市立公園には彼の銅像があるそうです。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2014-09-16 06:35 | 海外 | Comments(0)
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