オーストリア編(27):リンツへ(13.8)

 病院のすぐ前にある停留所からバスに乗ってRenner Ringへと戻り、路面電車に乗ってOperで下車。ケルントナー通りをてくてくと歩いてホテルへ行き、預けた荷物を受け取り、地下鉄に乗ってウィーン西駅(Westbahnhof)に到着。これでウィーンとはお別れ、次の宿泊地リンツ(Linz)へと向かいます。またしても見残した数々の物件に後ろ髪を引かれますが、再訪の縁といたしましょう。マーラーのお墓があるグリンツィング墓地、ウィーン西駅近くのハイドンの家、ヒトラーが落第したウィーン造形美術アカデミー、ヒトラーが泊まったホテル・インペリアル、ヒトラーの下宿(シュトゥンパーガッセ29番地)、ヴィトゲンシュタインが姉のために設計した家、高射砲塔を利用したウィーン水族館、強制収容所への出発点となった元アスパング駅、ドナウ運河クルーズなどなど。もしウィーンをまた訪れることがあったら是非見学したいのが、ウィーン近郊にあるというツヴェンテンドルフ原子力発電所です。1978年にオーストリアではじめて建設された原発でありながらも、国民投票によって一度も稼働せずに廃炉と決定。現在は脱原発の記念碑として公開され、またソーラー発電基地になっているそうです。なぜ彼らにはできて、私たちにはできなかったのか。臓腑を抉るような慙愧の念とともに比較する必要があると思います。幸い、「みどりの1kWh」というサイトでのじゅん氏、および「境界なき記者団」というサイトでの大貫康雄氏の興味深いレポートを拝見することができました。小生の文責で、両者をまとめながら紹介したいと思います。
 1972年、オーストリアでは、オーストリア社会党(SPO)政権のもとで原発の建設が開始されました。しかしドイツにある同型原発2基の故障、ドナウ川が氾濫した際の浸水の危険性、原発敷地の地下における断層の存在など、知識人や地元の人たちの懸念が高まっていきました。さらにアルプス山中の地下深くに、原発の使用済み核燃料、核(放射性)廃棄物を貯蔵する施設を作る計画が知られると、予定地とされた近隣の村々から強い反対論が起き、この計画も行き詰ります。こうした原発反対の声の高まりに危機感を抱いた政府は76年、「原発は安全」との情報キャンペーンを始めました。ところが、新聞各紙が政府の一方的なキャンペーンに対して原発批判の記事を載せ始めます。これがきっかけで一般の人たちが原発の実態、負の側面をよく知るようになりました。放射能の人体への深刻な影響、原発の技術は未完成であること、核廃棄物の安全管理・貯蔵の困難さ、「核の平和利用」と軍需産業の関係、事故の際、的確な住民避難が不可能なことなどです。77年4月、ザルツブルクで「核のない未来を目指す国際会議」が開かれ、日本の原水禁運動の関係者が広島・長崎・ビキニの被曝の実相を語り、オーストリアの人たちに放射能被害の深刻さを知らせたことも、反核の世論の盛り上げに貢献した、と言われています。77年秋には、初めて規模の大きいツヴェンテンドルフ原発反対デモが行われました。この最中、政府は原発推進色の濃い「原発報告」を議会に提出。しかし多くの問題点を無視し、国民を騙すもの、裏付けとなる研究・調査も不十分などの反論が続出しました。
 そして国民議会は1978年春に完成したツヴェンテンドルフ原発の稼働を認めるかどうかの国民投票を実施することを決定します。同年11月5日、オーストリアは第2次世界大戦後初の国民投票を実施。結果は原発稼働賛成45. 5%、反対55.5%という僅差でしたが、オーストリア国民は、52億シリング(377億9千万円)という莫大な費用をかけて完成 したツヴェンテンドルフ原発の稼働を拒否したのでした。際立ったのは、若者たち、特に若い女性たちが反原発だったこと。またツヴェンテンドルフの建設現場や、原発運営に作られた国営企業で働く人が多い地元や周辺の町村の人たちの間でも原発反対が多かったことでした。原発運営に作られた国営会社は即刻解体、ソ連のウラン企業やアメリカ・エネルギー省との契約は解除、フランス・コジェマ社との核燃料再処理契約も解除、コジェマ社の株式は外国企業に売却という果断な処理を政府は実行します。
 さらに同年12月には「オーストリアにおけるエネルギー供給のための核分裂の使用禁止」に関する法律を制定。1986年のチェルノブイリ原発事故を経て、さらに1999年には「原子力のないオーストリア」と名づけられた法律が制定されました。この法律は連邦憲法と同じ重みを持ち、第一条には「オーストリアにおいては核兵器を製造、保有、移送、実験あるいは使用してはならない」と記され、第2条には「核分裂を通じたエネルギー生産を目的とする施設はオーストリアでは建設してはならない。現在すでに存在している施設は稼働させてはならない」と記されています。オーストリアは脱原発だけではなく、核兵器も拒否する脱原子力政策を法律に明記 したのです。
 原発を拒否したオーストリアでは1979年から1988年までの間に石炭による火力発電所5基が建設され、現在電力需要の約25%をまかなっています。現在では再生可能なエネルギーによる電力が需要の62%を占めるそうですが、最も多いのが水力発電です。アルプスの山々から流れる川や湖が多く水力に恵まれるオーストリアは、ノルウエーやスイスと並んでヨーロッパの3大水力発電国に数えられます。
 福島第1原発の事故の後、オーストリアの人たちは30年以上前の自分たちの選択が正しかったことを再認識したといいますが、彼らも原発の恐怖から自由なわけではありません。チェコやスイス、スロヴァキア、スロヴェニア、ハンガリーなど周辺の国々の原発に取り囲まれているからです。もう一つの問題は、オーストリアが電力需要のすべてを自給自足していないことです。不足する分は近隣諸国から輸入していますが、その中に何パーセントの原発エネルギーが含まれているかは正確には分かりません。そのためオーストリア政府と各州政府は、自国の原発を廃止しながら他国の原発電力を輸入するという"二重基準"をなくすため、電力の完全自給自足を目標に掲げて努力しています。オーストリア政府はまた、周辺各国にこれまで以上に強力に脱原発を呼びかけています。「ヨーロッパ全体で脱原発を実現させなければならない」というのが、オーストリアの国を挙げての悲願だといいます。
by sabasaba13 | 2014-10-09 07:39 | 海外 | Comments(0)
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