「文明史のなかの明治憲法」

 「文明史のなかの明治憲法」(瀧井一博 講談社選書メチエ286)読了。明治新政府のリーダーたち(大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋)が、西洋体験を通していかにして日本型立憲国家をつくっていったのかを描いた力作です。条約改正のために憲法をもつ「文明国」として欧米に認めてもらい、かつ国民の自由・権利をある程度保障して国民国家を形成する。そのためにプロイセンの憲法を真似して、君主権力の強大な大日本帝国憲法をつくった。そうした小生の理解は大筋では間違っていないと思いますが、その過程で時代と格闘しながら試行錯誤を繰り返した様子についてよくわかりました。万国公法を無垢に信頼し、欧米の好意に頼って国際社会で生き延びようとした岩倉使節団。この考えは厳しい欧米の外交にぶつかりすぐに挫折、力の論理を思い知らされ、国力増強のための体制作り、そしてその一環としての憲法という問題に目が向けられます。そしてイギリス流立憲構想を主張する大隈重信と、プロイセン流立憲主義を主張する岩倉具視・井上毅のはざまでリーダーシップを失い、呻吟する伊藤博文。そして彼は起死回生のための憲法調査でシュタインと出会い、行政の機能、国民の創造、議会制度を支える諸制度といった、トータルな国制についての教示を受け自信を回復し、帰国後は憲法制定のイニシアティブをとることになります。なお、constitutionという言葉には、憲法という意味のほかに、その国の全体な統治の仕組みや組織構成というものが考慮されるべきだと著者は指摘しています。その意味での日本のconstitutionについての全体的な構想を伊藤はもったのでしょう。
 そして憲法発布時に山県有朋は地方制度研究のためにヨーロッパを視察し、フランスでブーランジェ事件に遭遇します(1889)。民衆の熱狂に後押しされたクーデター未遂事件ですね。議会制民主主義の負の部分を見せつけられた山県は帰国後、憲法の民主的な部分を減殺するために全力を尽くすことになります。議会と政府との協働による立憲政治を志向する伊藤、議会を立憲政治から隔離しようとする山県。以下、引用します。
 伊藤の頭のなかで、行政部や君主制などの議会制度以外の国家諸制度は、全体としての立憲体制を構成するものとして有機的に結び合っていた。これに対して山県においては、議会以外の諸機関の自律化が進み、やがてはそれらの肥大化によって立憲制度そのものの相対化がもたらされようとする。
 明治という「国のかたち」は、この二つのファクターの潜在的葛藤をふくんだものとして成立し、そして両者のせめぎ合いとつばぜり合いのなかで展開・変容していくのである。

 他にも、グナイストに冷たくあしらわれた伊藤、枢密院の設置は天皇の政治的突出にたがを嵌めるのが目的、山県の主権線・利益線演説(独立を守るために周辺諸国を勢力範囲に入れるという発想)はシュタインから教示されたもの、などなど興味深いエピソードも盛りだくさんです。

 疑問に思うのは、伊藤にしろ山県にしろ最終的に日本をどのような国にしようとしていたのか、ということです。柳田國男は「先祖の話」自序でこう言っています。
 理論はこれから何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ悪しかれ多数の同胞を、安んじて追随せしめることができない。…それを決するためにもまず若干の事実を知っていなければならぬ。明治以来の公人はその準備作業を煩わしがって、努めてこの大きな問題を考えまいとしていたのである。文化のいかなる段階にあるかを問わず、凡そこれくらい空漠不徹底な独断を以て、未来に対処していた国民は珍しいといってよい。
 “民族”という言葉については留保をつけますが、もし二人が生きていたら何と答えるでしょうか。近代日本の指導者たちに決定的に欠けていたのは、同胞が安んじて暮らせるための国制についての洞察だったと思います。結局、近代日本の(おそらく現代も)国制は、軍人を含む官僚と財界の利権を守るシステムとしてしか機能していなかったと考えます。自分の仕事はその準備作業であるという自負が、柳田にはあったのでしょう。そしてわれわれはその作業を引き継ぐとともに、アイヌ、ウチナンチュ、在日朝鮮人、外国人労働者を含めたこの列島に住む人々すべてを同胞と見る視線を育むことが大事なんじゃないかな。

 憲法改正/改悪についての論議はぜひ活発にして欲しいと思いますが、その前に明治憲法について知り考えておくのも無駄ではないと思います。この本を読んで、明治憲法はレディ・メイドの完成品ではなく、ブリコラージュ(器用仕事)による血の通った未完成品に思えてきました。
by sabasaba13 | 2005-07-19 07:07 | | Comments(0)
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