2014年衆議院選挙

 やれやれ。自民党の候補者に投票した方、あるいは棄権した方は、この政党が何をめざしているのか分かっているのでしょうか。以前も紹介しましたが、重要なことですのでもう一度、いや何度でも紹介します。『街場の憂国論』(晶文社)の中で、内田樹氏が述べられている言です。
 もう「全員がこの四つの島で生涯を過ごす」ことは統治者にとって、政策決定上の本質的な条件ではなくなった。だから今、「この四つの島から出られない機動性の低い弱い日本人」を扶養したり、保護したりすることは「日本列島でないところでも生きていける強い日本人」にとってもはや義務としては観念されていない。むしろ、「弱い日本人」は「強い日本人」がさらに自由かつ効率的に活動できるように支援すべきだとされる。
 国民的資源は「強い日本人」に集中しなければならない。彼らが国際競争に勝ち残りさえすれば、そこからの「トリクルダウン」の余沢が「弱い日本人」にも多少は分配されるかも知れないのだから。
 「弱い日本人」は「強い日本人」に奉仕しなければならない。人権の尊重を求めず、「パイ」の分配に口出しせず、医療や教育の経費は自己負担し、社会福祉には頼らず、劣悪な労働条件に耐え、上位者の頤使に黙って従い、一旦緩急あれば義勇公に報じることを厭わないような人間になることが「弱い日本人」には求められている。そのようなものとして「強い日本人」に仕えることが。
 これが安倍自民党が改憲によって日本人に飲み込ませようとしている「新しいルール」である。改憲の趣旨は、一言で言えば、「強い日本人にフリーハンドを与えよ」ということである。
 自民党の改憲案を「復古」とみなす護憲派の人たちがいるが、それは違うと思う。この改憲案はやはり「新しい」のである。
 国政の「採算不芳部門」である医療、教育、保険、福祉などをばっさり切り捨ててスリム化し、国全体を「機動化」することをねらっているからである。それは国民の政治的統合とか、国富の増大とか、国民文化の洗練とかいう、聞き飽きた種類の惰性的な国家目標をもはや掲げていない。改憲の目標は「強い日本人」たちのそのつどの要請に従って即時に自在に改変できるような「可塑的で流動的な国家システム」の構築である(変幻自在な国家システムについて言うには「構築」という語は不適当だが)。
 国家システムを「基礎づける」とか「うち固める」とかをめざした政治運動はこれまでも左右を問わず存在したが、国家システムを「機動化する」、「ゲル化する」、「不定形化する」ことによって、個別グローバル企業のそのつどの利益追求に迅速に対応できる「国づくり」(というよりはむしろ「国こわし」)をめざした政治運動はたぶん政治史上はじめて出現したものである。安倍自民党の改憲案の起草者たちは、彼らは実は政治史上画期的な文言を書き連ねていたことに気づいていない。(p.38~9)
 "弱い日本人"をまるごと差別して搾取して、内国植民地の民と化す。それを承知で自民党に投票したのなら、あるいは棄権したのなら、理解はできます(納得はできませんが)。「私たち弱い99%は、強い1%の僕として奉仕します」とね。でもどうやらそうではなさそう。選挙前の朝日新聞(2014.12.11)に下記のような記事がありました。
 今回の衆院選で「投票先を決めるときの気持ち」について、「政党や候補者に期待しているから」と「期待はしていないが、他よりよさそうだから」のどちらに近いかと尋ねた。結果は「期待している」という積極的な選択が33%、「他よりはよさそう」という消極的な選択が57%。自民が今回、300議席を超す勢いなのは、消極的な気持ちでも投票先に自民を選ぶ人が多いからだ。
 やれやれ、「他よりはよさそう」か… この国の有権者は、風と空気とムードが判断材料なのですかね、やれやれ。とりあえず、『ハーメルンの死の舞踏』(ミヒャエル・エンデ 朝日新聞社)に出てきた、ヴェレゲジウス(司祭・預言者)の言葉を記しておきましょう。やれやれ。
呪われよ、真実を語る者の口をふさぎ、
息の根を止めんとするなんじら。
呪われよ、真実を求めず、
偽る者に唯々諾々と従う民。
盲の群れを率いる盲ども、
人に対し、神の創りし世に対し、
いかなる罪も彼らは恥じぬ。
だが今や、なんじらもろともに
堕ちゆく時は熟した。
墓穴もすでに掘られている。
みじめなるなんじらに、
神の憐れみを! (p.36~7)

by sabasaba13 | 2014-12-15 06:38 | 鶏肋 | Comments(0)
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