『世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ』

 『世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ エル・システマの奇跡』(トリシア・タンストール 東洋経済新報社)読了。いやあ嬉しいですねえ、硬骨の報道写真誌『DAYS JAPAN』(2014.12)に、「エル・システマ」を紹介する記事が掲載されていました。簡にして要を得た一文なので、紹介いたします。
 1975年、経済学看であり音楽家のホセ・アントニオ・アブレウ氏は、「ベネズエラ国立青少年オーケストラネットワーク(通称、「エル・システマ」)」を設立した。子どもたちに音楽教育をする国家基金だ。今では国中で、約30万人の子どもたちや青年たちに無料の音楽教育を受けさせるまでに成長した。そしてその音楽教育システムは、世界的に知られるようになった。
 今では全国285か所に支部があり、子どもたちは単に音楽の授業を受けるだけでなく、ここで思いやりや規律、連帯や調和などを学ぶ。こういった基本的な資質は、オーケストラの演奏にも必要だが、暴力や犯罪、社会の分断に晒されているベネズエラの子どもたちにとって、将来、社会を成長させていくために必要な能力となるのだ。そういう意味で、このプロジェクトは音楽を超えた成果を発揮している。
 また音楽をとおして、身体や精神に障がいのある若者たちを社会に参加させるプログラムにも取り組んでいる。彼らに課外活動の場を提供することで、その家族にも自由が与えられ、生活の幅を広げることにも一役買っている。
 この音楽プログラムに参加する子どものたちの実に70パーセントが、貧困層の出身だ。現在20歳のアンドレスは、早くに父を亡くし、母はドラッグに溺れたため、6歳の時から路上生活を余儀なくされた。しかし、彼が12歳で行き着いた孤児院に「エル・システマ」のプログラムがあったことで、彼の人生は音楽と交差し始めた。初めて楽器に触れてから8年経った今、彼のトランペットの音色は、音楽が人生に喜びと平和をもたらすことを証明している。現在、彼は音楽家として活動するだけでなく、「エル・システマ」の支部で子どもたちにオーケストラの指導もしている。
 この学びと教えの伝承は、今ではベネズエラの著名なオーケストラの楽団員たちにも浸透している。彼らは国内だけでなく世界中で、「エル・システマ」のプログラムを広めている。音楽が社会変革と自己克服のツールであることを証明しているのだ。
 2009年からロサンゼルス・フィルハーモニックの音楽監督を務めるグスターボ・ドゥダメルもそのひとりだ。また13年、オーストリアのザルツブルグ音楽祭では「エル・システマ」が特集され、ベネズエラから招待された約1200人のメンバーが演奏した。今後も、「エル・システマ」は多くの子どもたちにチャンスを与え、そして人生を変え、これからも平和と調和の旋律を奏で続けるだろう。
 音楽教育者のトリシア・タンストール氏が、実際にベネズエラを訪れ、このオーケストラの関係者や団員の子どもたちを取材して結実したのが本書です。ほんとうにこんな奇跡のようなことが起こるのか、はじめは耳を疑ってしまいました。しかし現実なのですね。もう一人、エステバン君の例も紹介しましょう。
 痩せっぽちで用心深い目をした9歳のエステバン君は、カラカス市内の貧困地区で暮らしている。ここは掘っ立て小屋のような家が丘の斜面にひしめき合っている。水が出ないこともあれば、電気がつかないこともある。どちらもダメ、という日もある。
 夜、怒鳴り声やエンジンをふかす音が聞こえてくると、妹は怖がって眠れない。兄は15歳で学校へ行かなくなり、家にも寄りつかなくなった。ギャングに入ったのだ。父親は刑務所で服役中。最後に会ったのはいつだったか覚えていない。
 エステバン君も学校でしょっちゅう問題を起こした。勉強にもついていけず、先生に「お前は、ばかだ」と言われた。でも、1年前からシステマのラ・リンコナダ教室でバイオリンを習い始めて、自分は愚かではないことを知った。最初から楽器を持たせてもらい、今ではモーツァルトやヴィヴァルディの曲を弦楽アンサンブルで弾いている。バイオリンを自宅へ持って帰り、家でも練習する。
 教室は自宅から遠いが、毎日学校から帰ってくると、お母さんにメトロの駅まで送ってもらい、そこから無料送迎バスに乗る。お母さんは仕事を増やしたいが、そうなったら幼い娘の面倒は誰が見てくれるか心配していた。だから最近、エステバン君はお母さんにこう言った。
 「もうバス停まで送ってくれなくても大丈夫。妹も音楽教室に連れていくよ」 (p.168~9)
 キーワードは「音楽を通して子どもたちを救う」。アブレウ氏やドゥダメル氏、教師や関係者、そして子どもたちへのインタビューを軸に、タンストール氏自身によるさまざまな見聞をもとにして、エル・システマの"奇跡"を追った素晴らしいドキュメントです。一読、音楽と子どもたちへの信頼と愛情の上に築かれたそのやり方には胸が熱くなりました。合奏には他者への思いやりと協働が必要、それが人間としての成長につながる。そして、オーケストラはコミュニティーであり、そこでは自分に居場所があり、存在意義がある。音楽を通してコミュニティーの一員となり、連帯感と社会の規範を学ぶことができる。このシステムを支える方々の温かく人間的な信念がひしひしと伝わってきます。ホセ・アントニオ・アブレウ氏の言葉をいくつか紹介しましょう。
 住むところや食べるものに不自由している状態だけが貧困ではない。孤独であるとか、他人に評価されないとか、精神的に満たされていない状態も貧困である。物質的に恵まれない子どもが、音楽を通して精神的な豊かさを手にしたとき、貧困が生む負の循環は断ち切られる。(p.7)

 貧困は人の個性を失わせる。(p.60)

 オーケストラが子どもたちに与える意義は、喜びであり、モチベーションであり、チームワークであり、成功である。音楽は社会に幸せと希望をもたらす。(p.61)

 音楽から生まれるとてつもなく大きな精神世界は、物質的な貧困を打破する。(p.61)

 貧しい人たちの文化が貧しい文化であってはならない。(p.62)

 あなたはA、B、Cという3つのことしか知らないとします。でもそれは、あなたにはAとBとCを教えられる能力があるということ。あなたには教える責任がある。教えることによって自らも学び、あなたの力はさらにDやEやFまで伸びていく。(p.89)

 この国のすべての子どもたちが、無料で思う存分音楽を楽しめるようにするという目標を達成するまで、システマは拡大し続けます。(p.115)

 社会を芸術に触れさせるという発想はやめて、芸術のなかに社会を取り込む。いちばんつらい思いをしている弱者、すなわち子どもたち、そして他者から人として認められ、尊厳を保ちたいと願う人たちのために芸術を役立てるべきです。(p.148)
 音楽教室の数は約300、それぞれが複数のオーケストラを持っており、人口が3000万人に満たないベネズエラで、およそ37万人の子どもたちがシステマに参加しているとのことです。さらに感銘を受けたのが、2010年度の事業規模は約1億2000万ドルで、その大半は連邦政府からの助成金、残りは一般の寄付や預金金利などによって賄われているという事実。(p.59) ベネズエラ政府の見識と高い志に敬意を表します。それに対して、教育予算を徹底的に削減し、子どもたちに競争を強要し、良き社会をつくる学力よりも権力と権威に黙従する要領を身につけさせ、経済成長を支える使い捨ての部品としての資質を鍛え、最終的には国家権力に抗わぬ愛国心を育成しようとする、わが日本の教育。「子どもたちを救う」と「子どもたちを洗脳して利用する」、彼我の違いには暗澹とします。ま、多くの方々が暗黙のうちに了解しているのかあるいは無関心の結果なのかは、はたまた積極的に支持しているのかはわかりませんが、しばらくはこの路線が続きそうです。やれやれ… ドゥダメル指揮、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラによる『フィエスタ』というCDがあるそうなので、さっそく購入して耳を傾けながら、いろいろな意味で遠いベネズエラに思いを馳せることにしましょう。

 追記。朝日新聞(14.12.22)に気になる記事が載っていました。『反米大陸』でも紹介しましたが、これまで故チャベス大統領のもとに反米・反新自由主路線を歩んできたベネズエラ。財政赤字と高いインフレ率、そして原油安によって経済状態が悪化しているというニュースです。さらに盟友キューバがアメリカと関係を改善、また同様の動きを見せる南米の国も増え、孤立化も進んでいるとの分析でした。アメリカ合州国民の現状と暮らしがいかに凄惨なものか、堤未果氏のレポートを読めば一目瞭然。安易にアメリカにすり寄るのもいかがなものかと思うのですが。いずれにしてもエル・システマへの助成金がどうなっているのか、気がかりです。
by sabasaba13 | 2014-12-28 07:43 | | Comments(0)
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