オーストリア編(93):イグルス(13.8)

 そしてホテルに戻り、フロントで明日の天気を調べてもらいました。そうそう申し遅れましたが、フロントの若い男性、チェックインの時に教えてもらったのですが、かつて日本に住んでいたことがあるそうです。記念のパスモを見せてくれ、またジブリのファンだそうです。ちなみに山ノ神が一番好きなジブリの映画は『となりのトトロ』、私が一番好きな映画は『紅の豚』です。閑話休題、彼がインターネットで調べたところ、どうやら明日は雨模様。「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」、雨が降った時のお薦めを彼に伺いました。①巨大な城塞がそびえる町、クーフシュタイン(Kufstein)。②カラフルな街並みのリゾート、キッツビュール(Kitzbuhel)。③ザルツブルク(Salzburg)。④ミュンヘン(Munchen)。⑤ブレンナー峠の彼方にあるイタリアの町、ボルツァーノ(Bolzano)。ザルツブルクは論外、ミュンヘンも以前に訪れたことがあるのでパス。となると、クーフシュタイン、キッツビュール、ボルツァーノの三択ですが、いやいや明日は必ず晴れるに違いないと不敵な笑みを浮かべる晴れ男でした。
 後日談。帰国後に読んだ、前述の『ナショナリズム入門』(植村和秀 講談社現代新書2263)の中に、次のような一節がありました。
 ボーツェンはドイツ語、ボルツァーノはイタリア語で、同じ都市の呼び名です。ここは、第一次世界大戦後にイタリア領となった南チロル地方であり、イタリア人とドイツ人の紛争地域でした。激しい政治的対立の末、1970年頃にようやく共存への動きが軌道に乗り、現在ではドイツ人への配慮が行われています。
 ここを私が2000年に訪れた際には、どこでもドイツ語が話されていました。開催中の「スペクタクルム2000」というお祭りのパンフレットには、ドイツ語とイタリア語の説明が併記されていましたが、パレードの人たちが振っていたのはヨーロッパ連合の旗とドイツの旗だけでした。旧市街の西側にあるイタリア人地区にも行ってみましたが、人影も少なく、ムッソリーニが建設した戦勝記念碑だけが妙に大きかったのを覚えています。
 しかしこの地域でも、国境線の変更は喫緊の課題ではなくなりました。現在の課題は、現住地域内での人間集団間の平和的関係を維持することにあり、その実績は充分に蓄積されています。(p.144~5)
 人間の理性と叡智を信じたくなるような話ですね。中国の、韓国の、そして特に日本の指導者の方々には襟を正して耳を傾けてほしいものです。なおその「激しい政治的対立」の原因として、下記のような歴史的事実があることを、『第一次世界大戦』(木村靖二 ちくま新書1082)を読んで知りました。以下、引用します。ちなみに今年は第一次世界大戦勃発百周年なのですね。
 なお、オーストリア領にはイタリア系住民が約80万人ほどいて、うち11万人以上がオーストリア軍に入隊して忠実に義務を果たし、大戦中イタリア側に逃亡したのは3000人にも満たなかった。しかし、オーストリアは南ティロルのイタリア系住民11万人以上を後方地域に強制移住させ、イタリア側も占領した南ティロルの3万人のドイツ系住民をロンバルディアに送って抑留した。両国とも自国内の相手の民族を信用していなかったのである。民族混住が多い国境地域での戦争が、当該住民をどのような複雑な状況に追いやるのかを示す例である。(p.99)
 そうか、このボルツァーノを含む南チロルが、いわゆる「未回収のイタリア」だったのか。イタリアは、南チロルやトリエステなどイタリア語を話す者が多く住む地域(「未回収のイタリア」)をオーストリアから奪うため、三国同盟から離脱し、英仏とロンドン秘密条約を結んで協商国側に立って参戦したのですね。そして第一次世界大戦に勝利し、この地域を手に入れることに成功したわけだ。なるほど。
 イグルスの夜景を撮影し、部屋へと戻ってシャワーを浴び、バルコニーに出てウィスキーを舌の上でころがしながら、快晴を祈る呪文を唱えました。さあみなさん、ご唱和ください。エニ メニ アルーベニ ヴァナ タイ スースラ テニ!

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2015-01-24 05:38 | 海外 | Comments(0)
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