北海道編(10):宗谷岬(13.9)

 稚内公園から一時間ほどで宗谷岬から少し小高い、モニュメントが林立している所に到着です。ここで三十分の自由時間、バスは下の宗谷岬近くの駐車場で待っているとのこと。それでは記念碑を拝見しながら、ゆるゆると岬へおりていきましょう。まず目に入ったのが、「祈りの塔」という折鶴のような巨大なモニュメント。1983(昭和58)年に、領空侵犯のためにソ連軍の迎撃戦闘機に撃墜された大韓航空機の犠牲者を追悼するために遺族会が建てたものです。そして「宮沢賢治文学碑」。
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 解説文を転記します。
 1923(大正12)年8月、宮沢賢治は、この年5月に就航したばかりの「稚泊連絡船」で宗谷海峡を渡り、樺太(現・サハリン島)を旅しました。前年に最愛の妹・トシを亡くした傷心の賢治は、この旅をモチーフに多くの詩を残しています。この碑に刻まれているのは、未定稿の文語詩『宗谷(二)』の一節で、彼の心情がみごとに凝縮されています。この碑を建立したのは、宗谷要塞砲兵連帯(ママ)宗谷会の人達で、僚友の霊に対する深い哀悼と平和への祈りを込めて、この碑を「平和記念碑」と命名(碑の背面)しました。"サガレン"は、サハリンの古い呼称です。
 碑に刻んであった詩は"はだれに暗く緑する宗谷岬のたゞずみと北はま蒼に唾るサガレン島の東尾や"というものでした。
 おっ、「ラーメンは北に来るほどうまくなる」と主張される間宮堂の前には、蟹の顔はめ看板がありました。その近くにある剛毅木訥だが仁のなさそうな無骨な建物は旧海軍望楼。1902(明治35)年、ロシアのバルチック艦隊の動きを監視するという任務のために建てられました。ポーツマス条約により北緯50度以南の樺太を割譲されたのでその使命は終えましたが、その後は無線通信基地として、また太平洋戦争では対潜水艦監視基地として機能したそうです。三階のテラスにのぼると、なるほど周囲の海域を手に取るように一望できました。雲のためサハリンは見えませんでしたが。となりにあったのが「ラペルーズ顕彰記念碑」。ルイ16世の命を受けて海洋科学調査航海を行なったフランス海軍士官のラペルーズ伯爵が、1787年、北海道と樺太の間にある海峡を発見。その後220年になったのを記念して建てられた碑だそうです。
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 そしてお目当ての宗谷岬灯台へ。紅白に塗られた四角形の灯台です。道内では納沙布岬(根室)、日和山(小樽)に次いで、三番目に古い灯台ですが、当初の八角形鉄造灯台は1911(明治44)年に野火のために焼失。翌年に再建され、現在の灯台は1954(昭和29)年に建てられた三代目だそうです。かつては野菜類の食料を自給するために、約740坪の菜園があったそうな。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2015-02-17 06:38 | 北海道 | Comments(0)
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