さてそろそろ時間です。11:19発のオホーツク3号に乗車して、石北本線を一路網走へと東行。広大な大地を眺めたり、今後の旅程を確認したり、本を読んだりしていると、車内販売の方が「大雪山レアチーズケーキ」を売りにきました。♪食べたいな、食べたいな、食べたい食べたい食べたいな♪と垂涎し、珈琲とともに購入。北海道の風景を眺めながら、濃厚な味を楽しみました。
と、能天気な感想を書いてしまいましたが、汗顔の至りです。無知というのは本当に恐ろしいですね。この鉄道建設の陰に、「タコ」と呼ばれた労働者たちの言葉にできぬほどの苦役があったことを、前述の『常紋トンネル』(小池善孝 朝日新聞社)で教示していただきました。これは後ほど書きますが、もともと北海道における道路の建設や鉱山の採掘は、囚人労働によって行われました。しかしあまりにも非人道的かつ苛酷な労働で多くの囚人たちが死に追い込まれ、典獄(刑務所長)や教誨師はその誤りを内務大臣井上馨に訴えました。その結果、1894(明治27)年に囚人の外役労働は廃止されました。なお廃止を主張した行刑官はそろって職を追われたそうです。囚人に代わって、北海道開発の労働力となったのが「タコ」と呼ばれた拘禁労働者たちでした。誘拐または脅迫され、あるいはわずかな前借金に縛られて、逃亡できぬようにつくられた飯場(タコ部屋)に収容され、棒頭の監視と暴力のもとで苛酷な労働を強制される拘禁労働者のことです。その呼び名の由来は、諸説あります。道内の拘禁労働者を「地雇」と呼ぶのに対して、内地から連れてこられたから「他雇」。肩にタコができた熟練土工だから。蛸が自分を手足を食べるように、体を売って生きるから。あるいは常に逃走の機会を狙い逃げ足が早いので、糸の切れた凧にたとえた、などなど。
この石北本線は、彼ら「タコ」によって建設されたのですね。中でも最大の難工事だったのが、1914(大正3)年に三年がかりで完成した、生田原駅と金華駅の間にある常紋トンネルでした。タコたちは人権を無視された苛酷な扱いを受け、粗食と重労働で病気にかかる者も多く、医薬も与えられず、体罰を加えられました。そして使役不能と見なされた者は、一定の箇所に監禁され、死者はそのまま大きな穴の中に投げ込まれてしまう。この工事で百数十人の若者が犠牲になりました。なおトンネルの煉瓦壁の裏に、人柱のように立ったまま埋められた人骨も発見されたそうです。近代史における北海道の、いや日本の暗闇、もし石北本線に再び乗る機会があったら、今度はこの歴史を噛みしめながら列車に揺られたいと思います。
なお常紋トンネルに東にある佐呂間町は、足尾鉱毒で村を奪われた
元谷中村村長ら96戸が1911(明治44)年に集団入植したところだということも、本書で教えてもらいました。田中正造と農家とを切り離そうとの政府・県の奸策でこの地に入植させられた村民は一年で半減し、残った指導者は死の病床に伏してまで「だまされた! かえるんだ!」とうわ言を言い続けたそうです(p.31)。国家権力と資本のおぞましさには、あらためて背筋が寒くなります。