植治の庭編(4):南禅寺界隈(13.11)

 トンネルをくぐると洒落た生垣がつづく閑静な住宅街となります。不学蒙昧にして知らなかったのですが、このあたり一帯が「京都・南禅寺界隈別荘群」なのですね。『庭師小川治兵衛とその時代』を参考にさせていただいて、その由来を紹介いたします。
 琵琶湖疏水とは、明治維新後の京都を近代化させ、復興させる原動力として建設されました。簡単に言うと、琵琶湖の水を疏水(一種の運河あるいは用水)によって滋賀県から京都府に導き入れる計画です。その中心となったのが工部大学校を卒業した若き技師・田辺朔郎で、インクライン(水路落差のある所に設置された船を載せる傾斜鉄道)には彼の銅像と記念碑があります。「起工趣意書」によると、その目的は七つ。(1)水車の動力源、(2)通船、(3)灌漑、(4)水車による精米、(5)防火用水、(6)飲料水の確保、(7)下水の整備です。こうした機能を複合的に追及した結果が、小川治兵衛の庭園群や「哲学の道」を生み、疎水に長く生き残る命を与えたと著者は指摘されています。難工事の末に疏水が完成したのは1890(明治23)年、竣工式には天皇・皇后、山県有朋総理大臣、西郷従道海軍大臣、松方正義大蔵大臣、榎本武揚文部大臣が列席しました。しかし田辺朔郎の炯眼により、エネルギー源としての水の利用が、水車から水力発電に切り換えられます。それにともない、疎水の水量に余裕が生まれ、その水を私邸の林泉のために利用しようという動きがあらわれました。その嚆矢が、七宝作家の並河靖之。白川筋の自宅に七宝の研磨用に疏水の水を引き入れて、その一部を池水に利用しました。その庭をつくったのが隣に住んでいた小川治兵衛、しかしこのアイデアが並河のものか、植治のものかは判然としないようです。並河の成功によりこのあたり一帯に多くの七宝職人が住むようになり、彼らの庭をつくることによって疏水の利用法を植治が知悉するようになったようです。
 そうした時に、「一介の武弁」「政治的人間」山県有朋が、京都蹴上に無鄰庵をつくったのが1894~5(明治27~8)年ごろです。彼の趣味は作庭ですが、伝統的な庭とは一線を画すものでした。彼の言と著者の分析です。
 また水といふことについて、従来の人は重に池をこしらへたが、自分は夫より川の方が趣致があるやうに思う。よく山村などへ行くと、此前のような清川が潺々(せんせん)と繞(めぐ)つて流れてゐるが、あの方が面白いからこゝでは川にしたので (黒田天外 『続江湖快心録』)

 山県有朋は役石による庭園の構成をとらず、自然の景観を延長しながら庭をつくっている。それが教養のなさに由来するものか、確固たる信念と美意識にもとづくものなのかははっきりしない。おそらくはその両面からの結果であろう。だが彼にははっきりした好みがあった。浅い流れ、樅、楓、山桜の取り合わせ、低く刈り込んだ躑躅、そして芝を植えたことは、彼の好みと言ってよいであろう。ここには明治以降の大型和風庭園の原型がある。それはやはり山県の好みにひとつの源泉をもつものなのである。そして彼がここで「川の方が趣致があるやうに思う」と述べているのは甚だ興味深い。無鄰庵庭園の成立は、琵琶湖疏水の流れを取り入れることをその背景にしているのであり、「川」はこの庭にとって必然なのである。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-05-18 06:26 | 京都 | Comments(0)
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