植治の庭編(12):無鄰庵(13.11)

 なお最近読了した『山県有朋と明治国家』(井上寿一 NHKブックス1170)の中に、次のような一節がありました。長文ですが、引用します。
 明治国家の光の側面も影の側面も継承する。そこから新しい歴史観が生まれる。
 以上のように考えるならば、明治国家の権力を強調し、そのもとでたえず抑圧される「民衆」という歴史観では、帝国憲法を前提とする国家体制ではあっても、漸進的な民主化が進んだ政治過程を説明することはむずかしい。他方で「民衆」が民主化の中心であったとする歴史観にも無理がある。民主化は運動だけでは実現しない。民主化を可能とした近代的な諸制度を整備したのは、国家権力の側、政治指導者であり、国家官僚だった。要するに、多元的な権力関係の明治国家をとらえることのできる歴史観によって、日本近代史像を統合するべきである。
 この点を山県に引きつけて考えると、以下のようになる。暗い情念を抱きながら権謀術数を策する現実主義者としての山県像は、権力の所在へのあくことのない関心をもちつづけた松本清張がたくみに描いている。山県が民衆と対峙したこともまちがいない。山県は、欧州における君主制の危機と大衆民主主義の台頭が日本に波及することを警戒していたからである。
 そうだからといって、権力志向の山県の国家中心主義を批判したところでどうなるものでもない。問題は権力者としての山県が何をしたかである。国民軍を創出し、軍部の拡張をはかる。地方自治制度を確立する。警察制度を整えて治安体制を築く。これらは近代国民国家に共通する国家の基礎的な要素である。誰かが制度を設計し、政策を実施しなくてはならなかった。その誰かとは山県のことだった。
 途上国において軍部がその国の近代化を主導することは不思議ではない。第二次世界大戦後、あらたに独立した東南アジア諸国が程度の差はあれ、そうだった。これを開発独裁体制といってもよい。山県の政治的な役割も同じだった。明治維新革命後の途上国日本は、山県のもとで開発独裁体制の確立を志向した。
 ただし近代日本は、戦後の東南アジア諸国とは異なり、これらの国に先駆けること数十年前に、非西欧世界における最初の開発独裁体制を志向した。欧米を模範国としながらも途上国日本に固有の国家体制を確立する過程は、複雑な軌跡を描く。山県のような権力主義者にとっても、この過程を制御することは思いどおりにならなかった。(p.241~2)
 正直に言って、これまで山県有朋という官僚には否定的な印象をもっていました。民主主義を拒否するがちがちの国家至上主義者・軍国主義者というイメージですね。しかし本書を読んで、その印象が変わりました。なるほど、明治国家を"開発独裁"と捉える見方もあるのか。植民地化を強行する欧米列強に囲繞される中で、独立を守りながら近代国家の骨組みを築くには、ある程度の独裁はやむをえざるをえない。山県の業績をそう捉えることもできるのですね。そうした独裁に対する周囲からの猛反発に表面的には毅然と対峙しながらも、内面的には傷ついた心を癒すために造園へと逃避した、そう見るのは深読みのしすぎでしょうか。ただ国家権力に抗う者を許さないというメンタリティ、山県的なるものが、安倍伍長をはじめとする今の政治家や官僚に脈々と受け継がれ、そして民衆もあえて異を唱えないという状況には危惧を覚えます。もしかすると"開発独裁"という体制は、衣を変え多少マイルドになりながらも、現在まで受け継がれているのかもしれません。

 本日の二枚です。権力者の孤独と慰撫…
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by sabasaba13 | 2015-06-01 06:28 | 京都 | Comments(0)
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