重森三玲の庭編(8):天籟庵(14.3)

 それでは天籟庵とその露地庭を拝見しましょう。まず『重森三玲Ⅱ』(京都通信社)をもとに、この茶室について紹介します。前述のように、15歳で不昧流の茶の湯の稽古をはじめた三玲は、自宅でも稽古をしたいとの思いが募り、18歳の時、生家内に自ら茶室を設計しました。これがこの「天籟庵」です。父の元治郎がおもに施工を担当しました。重森家は農家でしたが、元治郎は手先の器用な人物で、大工仕事や家具づくりも得意としていました。その後、三玲は京都住まいになり、生家は無人となったことから茶室を縁の深い吉川八幡宮の敷地内に移築・寄贈、これにあわせて露地庭をつくったのが73歳の時です。
 一見してぶっとびました… 何だこれは… 開いた口はふさがらず目は点となり、呆然と立ち尽くすのみ… 前代未聞、空前絶後、奇想天外、破天荒、どう表現しても足りません。一木一草もない茫漠とした空間を、白と海老茶の二色に塗り分けられたモルタルが埋めつくします。これは、神社敷地内にあって樹木が繁茂し落葉も多いことから、庭を管理・清掃しやすいように三玲が考案したそうです。そのモルタルも微妙な起伏がほどこされ、まるで大地が息づきうねり、今にも動き出しそうです。白いモルタルの奇抜な意匠は海波で、これは隣にある吉川八幡宮はもともと海の神であるという説にしたがっているとのことです。しかし見方によっては波というよりも、台風の目、渦巻く大気にも思えます。「天籟庵」の籟という字は"響き"という意味なので(ex.松籟)、天の響きという含意があったのかもしれません。庭を囲む竹垣の意匠も斬新ですね。
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 その一方で、外露地に設けられた腰掛待合、リズミカルに打たれた飛び石、鎌倉期の灯籠の基礎を利用した蹲踞など、伝統をしっかりと踏まえているところも見逃せません。彼の美学と伝統がスパークして誕生した稀有なる庭、とても73歳の手によるものとは思えません。
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 残念ながら茶室・天籟庵は中に入れず、半分開けられた雨戸から内部を覗くだけです。前掲書によると、「真・行・草」の様式をとる三つの床の間が設けられています。インターネットで調べたところ、茶の湯の世界でよく使われる言葉だそうです。もともとは、書道の筆法である「楷書(真に相当)・行書・草書」という三種の筆法からきたもので、本来の形である「真」から、それを少しくずした形が「行」、そして最もくずした形が「草」となるとのことです。例えば、中国伝来の道具類は「真」、それをモデルとした国産の道具類は「行」、本来の形をくずして思い切って簡素化し和風化した道具類は「草」。これは茶の湯に限らず、日本における外来文化の受容にあてはまる特徴(「まねる・くずす・やつす」)だという指摘は鋭いですね。
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 なおこの茶室を寄付して露地庭をつくった重森三玲は、ここを使う人たちがさまざまに趣向を凝らし、自由な創作茶会を催すことを念願していたということです。"茶の湯とはただ湯をわかし茶を点ててのむばかりなることと知るべし"、私のような凡百の人間でも、この庭と茶室で自由に茶会を開くとしたらどんな趣向を凝らすか、考えただけでもいたく想像力を刺激されます。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2015-07-11 08:34 | 山陽 | Comments(0)
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