尾形乾山展

c0051620_1871161.jpg ある日ある時、どこからともなく山ノ神が「着想のマエストロ 乾山見参!」という展覧会の招待状をもらってきました。"倒るる所に土を掴め"を座右の銘とする山ノ神に強力に誘われ、サントリー美術館に参ることにしました。尾形乾山か、光琳の弟、ユニークな意匠の器をつくった陶工、晩年は江戸の入谷に住んだ、くらいのことしか思い浮かばない無学な私。乾山の器を見たことがないので楽しみです。さて尾形乾山とは何者か、スーパーニッポニカ(小学館)から引用します。
尾形乾山 (1663‐1743) 江戸中期の陶芸家、画師。
 京都屈指の呉服商雁金屋(かりがねや)尾形家の三男として生まれる。名は深省。権平、惟允とも称した。尾形光琳は彼の次兄である。富裕な商家に育ちながら2人とも商人にはならず、もっぱら文化的な素養を身につけ、自由な生活を楽しんだ。1689年(元禄2)27歳のとき乾山は洛西双ヶ岡に習静堂という一書屋を構えて文人生活に入っている。近くに高名な野々村仁清が活躍する御室焼があり、この窯に遊ぶうちに陶工になる決意を固め、99年に2代仁清より陶法の秘伝を受け、近くの鳴滝泉谷に窯を築いて本格的な製陶生活に入った。この窯が京都の乾(いぬい)の方角にあたるため「乾山」を窯の名につけ、その製品の商標、さらに彼自身も雅号に用いている。
 乾山は仁清に技術を学びながら、その様式を継承することをせず、兄光琳の創始した琳派とよばれる復興大和絵の画風をみごとに意匠化することに成功し、一家をなすことができた。白化粧地に鉄絵や染付を使って表す装飾画風はまことに雅趣に満ち、瀟洒な作風は個性に輝いており、製品には師のかわりに「乾山」と筆で自署するのも画師と同じ芸術家意識を表している。
 1712年(正徳2)に鳴滝から市中の二条丁字尾町に窯を移した時期から、彼の作陶は第二期に入るが、16年(享保1)に絵付に参画した光琳が死亡したころは、陶業は不振をきたしたといえる。しかし彼の遺品をみると、得意とする白化粧地鉄絵、染付のほか、色絵にも新機軸を生み出し、中国、朝鮮、オランダの陶芸を模倣し、京都では初めて磁器を焼出するなど、彼ほど新技術の進取に取り組んだ陶工も少ない。その意欲的な精神は75歳の37年(元文2)に著した『陶工必用』に横溢している。享保(1716~36)の中ごろに江戸に赴き、晩年はこの地で送り、寛保3年6月2日、81歳で没したが、晩境にあっては絵画に名作を多く残し、「京兆」「平安城」を冠称して「紫翠深省」と自署し、自ら京都文化の保持者であることを誇示した。
 都営12号線の六本木駅からとことこ歩いて「東京ミッドタウン」とやらに到着。こんなに物をつくって売って買って捨てまた売って買わなければ経済は発展しないのかと絶望するくらい、わけのわからない虚飾に満ちたお店が乱立する中を息を止めて足早に通り過ぎ、三階のサントリー美術館に辿り着きました。年配のご婦人を中心にけっこう混雑していますが、忍耐できないほどではありません。いざ拝見いたしましょう(ロハだし)。
 まずは"乾山への道-京焼の源流と17世紀の京都"というコーナーでは、乾山を育んだ17世紀京都における町衆の美意識が紹介されていました。本阿弥光悦の「赤樂茶碗 銘 熟柿」の高台を呑み込むようなもっこりとしたふくよかな佇まいには思わず緩頬。俵屋宗達の料紙に光悦の書という豪華なコラボレーションにも目を奪われました。いやあいきなり眼福ですね。
 そして"乾山颯爽登場-和・漢ふたつの柱と大平面時代"、いよいよ乾山の登場です。鳴滝窯で作られた角皿は、まるで器という四角いキャンバスに描かれた絵画。着想の妙ですね。兄・光琳との合作にもお目にかかれましたが、文人画を思わせる軽妙洒脱な絵はなかなか魅力的です。私が気に入ったのは「色絵桔梗盃台」、盃を並べて置くための台ですが、綺麗な桔梗の花弁をあしらった鍔が裾広がりの円筒につけられており、その配色と形状のユニークさには脱帽です。
 "「写し」-乾山を支えた異国趣味"コーナーでは、海外陶磁の「写し」を展示していました。解説によると、中国・東南アジア・ヨーロッパなどの舶来品を珍重する文化人向けに売るための器で、乾山窯を経済的に支えた主力商品だそうです。中国、安南、はてはオランダのデルフト焼(「染付阿蘭陀草花文向付」)まで摸 した、実利を兼ねた旺盛な好奇心と探求心を感じました。
そして本展覧会の白眉、"蓋物の宇宙-うつわの中の異世界"です。紹介文を引用しましょう。
 鳴滝の窯では角皿類や写し物をはじめ、多種多様のうつわが作られていましたが、その中でも特に個性的なのが「蓋物」です。丸みを帯びた柔らかな造形は、籠や漆器に着想を得たと言われています。
 この蓋物に共通して表されるのが、外側の装飾的な世界と対照をなす内側のモノトーン空間です。それはさながら蓋を開けて初めて明らかとなる「異世界」。この世ならざる世界の扉を開けてしまうこのうつわは、未知の体験へ誘う一大イベントを演出したことでしょう。そう、乾山はこの蓋物でひとつの「宇宙」を作り出してしまったのです。
 いやはや、「銹絵染付金銀白彩松波文蓋物」には参りました。蓋には、白・金・銀で松が描かれていますが、思い切りデフォルメされ、まるで生きているかのように蠢いています。その銹色の余白とのバランスの妙も素晴らしいですね。そして内側はモノトーンに描かれた、静かにたゆたう波文。「白泥染付金彩芒文蓋物」も凄い。蓋には、白泥・マンガン呉須に金彩を施した芒が自由闊達・天衣無縫に描かれ、まるでジャクソン・ポロックの絵のようです。そして内側には肉太の筆致で描かれた花入四方襷文、外と内の対比の妙が素晴らしい。
 次の"彩りの懐石具-「うつわ」からの解放"コーナーも劣らずに見事でした。紹介文を引用します。
 乾山は正徳2年(1712)、鳴滝から京都市中の二条丁子屋町に移転し、懐石具を多く手掛けるようになります。懐石具自体は鳴滝時代から作られていましたが、時はまさに京焼全体が飲食器の量産に向かっていた時代。乾山も競合ひしめくこの分野で、果敢に勝負に出たのでした。
 ここで乾山最大の武器となったのは琳派風の文様や文学意匠に基づく斬新なデザインです。文様の輪郭に縁取られた向付、内側・外側の境界を超えて、水流が駆け巡る一瞬を取り出したかのような反鉢など、立体と平面の交叉するその着想は、現代の私たちが見ても遊び心にあふれ、新しく見えるものばかりです。
 こうして乾山は「うつわ」の枠にとらわれない彩り豊かな懐石具で成功を収めたのです。
 菊や楓を大胆にあしらった五客ワンセットの「色絵菊図向付」や「色絵龍田川図向付」は、乾山の遊び心に満ちた向付です。山ノ神のご教示によると、向付(むこうづけ)とは、膾(なます)や酒の肴を盛りつける小皿だそうです。中でも私が気に入った一品は「夕顔図黒茶碗」。深みのある漆黒に浮かび上がる二輪の夕顔。その愛らしさとあたたかさに、しばし時を忘れて見惚れてしまいました。

 というわけで、尾形乾山の魅力を堪能できた、素晴らしい展覧会でした。安倍伍長を筆頭に、「今だけ」「金だけ」「自分だけ」のことしか考えない恥知らず・嘘つき・人でなしが各界で跳梁跋扈する日本。絶望する気は毛頭ありませんがちょっと気が滅入っていたこの頃、一服の清涼剤を味わえて幸せです。
by sabasaba13 | 2015-07-26 18:08 | 美術 | Comments(0)
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