『思い出袋』

 『思い出袋』(鶴見俊輔 岩波新書)読了。たまたまなのですが、鶴見氏が逝去される直前に読み終えました。氏が、戦中・戦後をとおして出会った多くの人や本、自らの決断などを縦横に語った自伝風エッセイです。今となっては、氏の遺言とも思える一文を紹介します。
 1942年5月、米国メリーランド州ボルティモアに近いミード要塞内の日本人戦時捕虜収容所で、「日米交換船が出る。のるか、のらないか」ときかれて、その場で米国政府役人に「のる」と私はこたえた。
 そのとき何を私は考えていたのか、その後六十五年の間に何度も考えた。
 そのときの考えをいつわらずに再現したい。まず、自分が日本国籍をもつから日本政府の決断に従わなければならないとは思わなかった。日本国民は日本政府の命令に従わなければならないという考え方からは、日本にいるときに離れていた。
 では、すでに日本から離れて収容所に入れられているのに、なぜ日本に戻るのか。
 私の日本語はあやしくなっていたが、この言語を生まれてから使い、仲間と会ってきた。同じ土地、同じ風景の中で暮らしてきた家族、友だち。それが「くに」で、今、戦争をしている政府に私が反対であろうとも、その「くに」が自分のもとであることにかわりはない。
 法律上その国籍をもっているからといって、どうしてその国家の考え方を自分の考え方とし、国家の権力の言うままに人を殺さなくてはならないのか。私は、早くからこのことに疑問をもっていた。同時に、この国家は正しくもないし、かならず負ける。負けは「くに」を踏みにじる。そのときに「くに」とともに自分も負ける側にいたい、と思った。敵国家の捕虜収容所にいて食い物に困ることのないまま生き残りたい、とは思わなかった。まして英語を話す人間として敗北後の「くに」にもどることはしたくない。
 だが、私が当時の日本国家を愛し、その政府の考え方を自分の考え方としていると誤解されたくもなかった。敗戦後もそう誤解されたくない。そこをわかってもらうことは、自分の家の内部でも戦中は危険、戦後、そして現在もむずかしい。
 政治家は、必要もないのに原子爆弾を二個も日本人の上に落とした米国の言いなりになり、日本国の大臣は米国の国務長官の隣に立つとき、光栄に頬を紅潮させて写真に写っている。この頬の紅潮はかくせない。まぎれもない事実である。
 勤め先の広島で原爆にうたれ、歩いて故郷の長崎にもどってそこでふたたび原爆を落とされて生き残った人は、「もてあそばれた気がする」と感想を述べた。この感想から日本の戦後は始まると私は思うが、その感想は、国政の上では、別の言葉にすりかえられたままである。(p.161~3)
 言葉、仲間、風景、家族、友だち、それは「くに」(nation)であって、それをもとにして自分ができた。それは国民を統治・支配するための権力機構、国家(state)とは峻別しなければならない。そう理解しました。この権力の一翼を担う方々(官僚・政治家・財界)は、えてして「愛国心」という言葉を怒号し、私たちにそれを強要します。しかしそれは"「くに」を愛しなさい"ということではなく(それはそれで余計なお世話ですが)、"国家に従順であれ"ということを内実としています。富裕者を優遇し格差を拡大して多くの家族に塗炭に苦しみを与え、競争原理を煽り仲間を分断し、企業や行政の利益のために自然(風景)を破壊してきた/している彼らが、「くに」を蹂躙してきた/している彼らが言うところの「愛国心」は"国家を愛してそれに抗うな"ということでしかありえません。こういうお守り・魔除け言葉に騙されないようにしよう、常に「くに」の側に立つようにしよう、そうしたメッセージとして受け取りました。
 もうひとつ、「必要もないのに原子爆弾を二個も日本人の上に落とした米国の言いなりにな」ってきた日本という国家への痛烈な批判も胸に刻みました。その非道な米国のために、莫大な「思いやり予算」を提供し、辺野古新基地を身銭を切って建設し、米兵の犯罪を黙認し、米軍機の低空飛行訓練や爆音を容認し、沖縄をはじめ基地による被害に苦しむ人々の訴えを無視する、そういうことをする人って、普通の感覚では「売国奴」って言いませんか。最近、集団的自衛権に反対する運動、米軍基地に反対する運動に、「売国奴」という言葉を投げつける方々がいるそうです。(山ノ神も、集団的自衛権反対デモに参加したらそう言われたそうです) でも投げつける相手を間違えてはいませんか。

 自分の頭と言葉で考える、鶴見氏にはとても及びませんが、その後塵を拝していきたいと思います。
by sabasaba13 | 2015-07-28 06:27 | | Comments(0)
<< 言葉の花綵123 戦争絶滅受合法案 >>