重森三玲の庭編(27):非核「神戸方式」の碑(14.3)

 なお、この神戸方式が現在どのようになっているのか、非常に気になるところです。これについて、最近読んだ『9条「解釈改憲」から密約まで 対米従属の正体 米公文書館からの報告』(末浪靖司 高文研)の中で触れられていたので、長文ですが引用します。
 以上、(※日米)地位協定第五条の制定過程に見る通り、米軍航空機や米艦船の自由な着陸や入港は認められていない。そして、その効力は今も生きている。
 神戸港を例にとって見よう。神戸港は米軍が第六突堤に居座り軍事基地として使用したが、長年にわたる港湾労働者をはじめ神戸市民のねばりづよい返還闘争によって全面返還が実現した。その後、神戸市は「神戸市港湾施設条例」を制定し、第二条では「港湾施設を利用しようとする者は、市長の許可を受けなければならない」と定めている。この条例にもとづいて、神戸市議会は1975年3月18日に「核兵器積載艦船の神戸港入港拒否に関する決議」を全会一致で採択した。決議は「この港に核兵器がもちこまれることがあるとすれば、港湾機能はもとより、市民の不安と混乱は想像に難くないものがある」と述べている。これにより神戸市は神戸港に入港する外国艦船に対して核兵器を積載していない旨の証明書の提出を求めている。いわゆる「神戸方式」である。
 このようなたたかいは、神戸港にかぎらず全国どこの港湾でもあったのである。実際、港を米軍の基地として確保しようとした米側のくわだては、港湾の平和な発展を求める日本の世論と運動の頑強な抵抗にあった。それこそが、港湾の軍事利用を阻み、自治体の管理する商業港として発展させてゆく原動力であった。
 日本の港湾はその多くが都道府県、市町村の管理のもとにあるが、多くの地方自治体では核兵器廃絶を求め、核兵器の持ち込みを拒否する住民の意向を反映して非核都市宣言や非核港湾宣言をしており、米軍艦船については核兵器積載の可能性があるため、その入港に際しては非核証明書の提出を求める動きが1980年代以降に強まった。
 ところが政府は、1980年代に入ると、各自治体に対して外務省が通達を出し、米軍艦船の入港を無条件で受け入れるよう強要するようになった。政府みずからが地位協定第五条の本旨をねじ曲げることによって、アメリカの艦船を商業港に強引に入港させるよう要求したのである。
 函館市では、市議会が1982年10月7日に「核兵器廃絶非核都市宣言」決議を採択し、市当局は1984年8月6日から米軍艦船に対して非核証明の提出を求めることを検討した。これに対して外務省は1987年5月12日、「安保条約及びその関連取極に基づき我が国へ出入を認められている米軍艦船の本邦寄港は、支障なしに実施されるべきものである」とする北米局安全保障課長名の文書を函館市長に送った。
 高知県も、米軍艦船に非核証明書の提出を求めることを検討したが、外務省は1998年12月28日、「港湾管理者としての地位に基づく権能の範囲を逸脱するものであって、地方公共団体の事務としては許されない」とする北米局長名の通達を送った。
 このほか多くの自治体が神戸方式の導入を検討し、あるいは米艦船寄港拒否を表明したが、政府はそのつど「米艦船の入港許可は政府の専管事項である」という通達を出して、米軍艦船の受け入れを強要している。このため、いまでは米艦船寄港は、北海道の稚内から沖縄県の石垣島、与那国島まで日本列島のほとんどに及んでいる。
 沖縄県の石垣島では、2009年4月に港湾管理者である石垣市長が入港を断っているにもかかわらず、米掃海艇二隻が入港を強行した。2010年2月に同市を訪れた私に、石垣市企画部長は「米兵たちは上陸を強行し島内各地を撮影してまわった。台湾海峡などの戦争で傷病兵看護の後方基地にするつもりだ」と語った。(p.128~31)
 やれやれ、もう溜め息も出ません。日本の権力中枢の根深い対米従属… 末浪氏はその象徴として、砂川裁判で、最高裁長官が駐日大使に、最高裁判事15人による評議の内容を通報し、米軍駐留を合憲とする判決理由を一本化することまで約束していた事例を挙げておられます。なお米軍は「戦力」ではないとする憲法第九条の新解釈をひねりだし、それをひそかに日本政府に教え込み、その解釈をもとに米軍合憲という結論を出したのが最高裁の砂川判決だったのですね。そしてこれをもとに、日米両政府が結んだ無数の「密約」によって、日本の法令を無視した米軍の自由な行動が認められている、というのが日本の惨めな現状です。いったいこれのどこが主権国家、法治国家なのでしょうか。
 それにつけても、こうした官僚・自民党の卑屈さをどう理解すればいいのでしょう。暗澹たる気持ちになっていると、わが敬愛するジョージ・オーウェルが「ライオンと一角獣」というエッセイに出あいました。(『オーウェル評論集4 ライオンと一角獣』 平凡社ライブラリー) 1941年に書かれたもので、当時のイギリスの指導者たちに対する痛烈な批判ですが、そっくりそのまま熨斗をつけて日本の指導者たちに進呈したいですね。
 そのような彼らには、明らかに逃げ道はただひとつしかなかった。愚鈍への逃避である。社会を現在の形にとどめようと思うならば、改善が可能なことを理解しえないという方法以外にはなかった。それは容易なことではなかったが、主として過去にのみ目を向け、周囲に起こっている変化には頑として目をつむることによって、彼らはなんとかそれをやりおおせたのである。(p.38)
 そうした彼らの愚鈍を支えているのは、われわれ一般市民の愚鈍です。安楽な愚鈍に逃避せず、事実を知り、見つめ、社会をより良い方向に変える努力をしたいと思います。
by sabasaba13 | 2015-08-20 09:12 | 近畿 | Comments(0)
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