『ハンナ・アーレント』

c0051620_6425049.jpg 年末・年始は好きなことをしてのんべんだらりと過ごせました。本を読みチェロを弾きテニスをし、年末には映画館で『首相官邸の前で』と『人間の戦場』を観て、『マッサン』の総集編を観て、大晦日には小林研一郎の「ベートーヴェンは凄い! 全交響曲連続演奏会2013」を聴いて、年始は箱根に行って大平台の大曲がりで駅伝を応援して、『ブラタモリ』の再放送を観ました。そして買ったけれどもまだ観ていないDVDの映画を鑑賞しようと、棚から選んだのが『ハンナ・アーレント』と『プラトーン』と『マルコムX』と『フェア・ゲーム』です。
 ハンナ・アーレントは気になっていた政治学者・哲学者で、『人間の条件』を読んだのですが、その晦渋な文章にあえなく轟沈。恥ずかしながらその彼女を主人公とした映画があると最近知り、購入しておいた次第です。監督はマルガレーテ・フォン・トロッタ、主演はバルバラ・スコヴァ、さあはじまりはじまり。

 舞台は1960年代のアメリカ。ユダヤ人である哲学者ハンナ・アーレントは、ナチスによる迫害から逃れるためドイツから亡命して、現在はアメリカに住んでいます。その彼女の元に、南米に逃亡していたアドルフ・アイヒマンが逮捕されてイスラエルで裁判が行われるというニュースが届きます。アイヒマンはゲシュタポのユダヤ人部門の責任者として「最終解決」(行政的大量虐殺)の実行を担い、ユダヤ人たちを絶滅収容所に移送する指揮をとっていた人物です。
 アーレントはこの裁判を傍聴するために、すぐイェルサレムに向かいます。好著『ハンナ・アーレント』(矢野久美子 中公新書)にはこうあります。
 1933年にドイツを出国したためナチの全体主義をじかに体験しておらず、ニュルンベルク裁判も見ることができなかったアーレントは、いま「生身のナチ」を見て考えることが過去に対する自分の責任だと考えたのである。「もし行かなかったら自分を許せないでしょう」とアーレントはヤスパースへの手紙で書いている。(p.182)
 裁判を傍聴し、彼を観察し、膨大な資料を収集して考え抜くアーレント。なお法廷シーンで、アイヒマンの実写映像を使用したのは卓見。ヘビースモーカーのアーレントが、プレスルームで煙草を吸いながらモニターを見ているという設定です。トロッタ監督は、俳優ではアイヒマンの本質を表現できないと解説されていますが、実写映像を見て納得。落ち着きのない仕草と虚ろな表情で視線を宙にさまよわせながら、「命令に従っただけだ、自分に責任はない」とくりかえすアイヒマン。そこには人間としての苦悩や葛藤は毫も感じられません。監督曰く「彼の話しぶりから、頭の中で深く思考することができない人間だとわかります」。ん? われらが安倍伍長のことをふと思い浮かべてしまいました。何となく似てますね。
 そしてアメリカに戻ったアーレントは、この裁判について時間をかけて思考し、その結果を雑誌『ニューヨーカー』に掲載します。ところがその内容に関して、ユダヤ人を筆頭に多くの読者から凄まじいバッシングが浴びせられます。まずはアイヒマンについて、彼女はこう考察しました。同著より引用します。
 さらには、アイヒマンを怪物的な悪の権化ではなく思考の欠如した凡庸な男と叙述した点である。紋切り型の文句の官僚用語をくりかえすアイヒマンの「話す能力の不足が考える能力-つまり誰か他の人の立場に立って考える能力-の不足と密接に結びついていることは明らかだった」と彼女は述べた。無思考の紋切り型の文句は、現実から身を守ることに役立った。(p.187)
 この分析が犯罪者アイヒマンの責任を軽くするものだと受けとられたのですね。さらにユダヤ評議会が、アイヒマンから各列車を満たすに必要な人数を知らされ、それに従って移送ユダヤ人のリストを作成したと書きました。彼女は、全体主義は加害者だけでなく被害者においても道徳を混乱させるという文脈で考えたのですが、これがユダヤ人を共犯者に仕立てあげるものだと受け止められました。さらにアーレントは、この裁判自体をも批判します。(このあたりは映画では詳しく触れられていませんが) 法廷は正義に使えるべきであるのに、この裁判はユダヤ人の苦難をアピールするためお見世物であったと叙述します。当然の如く、イスラエル政府がこの意見に猛反発します。
いわゆる"炎上"ですね。ユダヤ人の友人たちもアーレントから離れていきます。孤立し傷つき苦悩するアーレント、しかし彼女は夫や親友に支えられながら節を曲げません。このあたりのバルバラ・スコヴァは素晴らしい、人間アーレントを見事に演じ切っていました。そして大学の学長から辞職を勧告されるにおよんで、彼女は学生を前にした講義で弁明することを決意します。この講義の場面がクライマックス、感動しました。一時停止をくりかえしながら文章におこしたので、紹介します。
 今日だけは早々に吸うけれど許してね。
 雑誌社に派遣されてアイヒマン裁判を報告しました。私は考えました。法廷の関心はたった1つだと。正義を守ることです。難しい任務でした。アイヒマンを裁く法廷が直面したのは、法典にない罪です。そしてそれは、ニュルンベルク裁判以前は前例もない。それでも法廷は彼を裁かれるべき人として裁かねばなりません。しかし裁く仕組みも判例も主義もなく、"反ユダヤ"という概念すらない人間が1人いるだけでした。彼のようなナチの犯罪者は、人間というものを否定したのです。そこには罰するという選択肢も、許すという選択肢もない。彼は検察に反論しました。何度も繰り返しね。"自発的に行ったことは何もない""善悪を問わず自分の意思は介在しない""命令に従っただけなのだ"と。こうした典型的なナチの弁解で分かります。世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は"悪の凡庸さ"と名づけました。

 [学長] 先生、先生は主張していますね。"ユダヤ人指導者の協力で死者が増えた"

 それは裁判で発覚した問題です。ユダヤ人指導者はアイヒマンの仕事に関与していました。

 [学長] それはユダヤ人への非難ですよ。

 非難など一度もしてません。彼らは非力でしたが、でもたぶん、抵抗と協力の中間に位置する何かはあったはず。この点に関してのみ言います。違う振る舞いができた指導者もいたのではと。そしてこの問いを投げかけることが大事なんです。ユダヤ人指導者の役割から見えてくるのは、モラルの完全なる崩壊です。ナチが欧州社会にもたらしたものです。ドイツだけでなく、ほとんどの国にね。迫害者のモラルだけではなく、被迫害者のモラルも。どうぞ。

 [学生] 迫害されたのはユダヤ人ですが、アイヒマンの行為は"人類への犯罪"だと?

 ユダヤ人が人間だからです。ナチは彼らを否定しました。つまり彼らへの犯罪は、人類への犯罪なのです。私はユダヤ人です。ご存じね。私は攻撃されました。ナチの擁護者で同胞を軽蔑しているってね。何の論拠もありません。これは誹謗中傷です。アイヒマンの擁護などしてません。私は彼の平凡さと残虐行為を結びつけて考えましたが、理解を試みるのと許しは別です。この裁判について文章を書く者には、理解する責任があるのです! ソクラテスやプラトン以来、私たちは"思考"をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね。私は実際、この問題を哲学的に考えました。"思考の風"がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。ありがとう。
 胸と頭が熱くなりました。そう、この映画の主人公は"思考"なのです。考えることの素晴らしさと難しさ、そして思考しないことによってもたらされる巨悪。最後のメッセージ、「私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう」をしかと胸に刻みたいものです。反知性主義が蔓延し、安倍伍長を筆頭にアイヒマン的人間が闊歩している現今の日本においては特に。
 『人間の条件』、『全体主義の起源』、そして『イェルサレムのアイヒマン』といったアーレントの著作にも取り組んでみようと思っています。

 なおこのスピーチは、私が見た映画の中でベスト3にノミネートしたいですね。あと二つは、『ブラス!』と『チャップリンの独裁者』、よろしければこちらをご覧ください。
by sabasaba13 | 2016-01-30 06:43 | 映画 | Comments(0)
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