スイス編(93):ジュネーヴ(14.8)

 サン・ピエール大聖堂を撮影して、宗教改革記念碑の方へ歩いていくと、ある建物に記念プレートが掲げられていました。フランス語なので詳細はわかりませんでしたが、赤十字とアンリ・デュナンに関係する物件のようです。気になったので、今、インターネットで調べてみると、「swissinfo.ch」というサイトに詳しい説明がありました。小生の文責で要約して紹介します。アンリ・デュナンは1828年5月8日ジュネーヴで、人道主義的な気風の漂う敬虔なプロテスタントの家庭に生まれた。しかし学業は振るわず、高校を中退した後、実業界に入り、アルジェリアで広大な土地を開発する工業・金融の会社を興しました。31歳の年、事業に必要な水利権の獲得をナポレオン3世に直訴しようという大胆な考えを思いつき、北イタリアに向かいました。当時ナポレオン3世は、イタリアからオーストリア軍を退却させようとイタリア・フランス連合軍を指揮していました。こうしてデュナンは、北イタリアのソルフェリーノの戦いに遭遇します。イタリアの独立を目指し戦うフランス・サルディニア連合軍とオーストリア軍の激しい戦いはガルダ湖の近くで、1859年6月24日に始まります。戦いが終わるころ、両軍の4万人を越える兵士が深い傷を負い、戦場でもがき苦しんでいました。その悲惨な有様にデュナンは、即座に地元住民の助けを借り救助隊を組織ました。ジュネーヴに戻ったデュナンは、戦争の悲惨さを緩和し、より人道的な「傷ついた兵士を援助する組織」の構想を発展させていきます。ソルフェリーノでの記憶がまだ生々しい1863 年、デュナンは4人の友人と、後の「赤十字国際委員会(ICRC)」の基礎となる「5人委員会」を立ち上げました。一年後、5人の交渉力に支えられ、スイス政府は16カ国を招待して国際会議を開催し、最初の「ジュネーブ条約」の調印式が行われました。条約は戦争のルールを規定し、戦場での負傷兵の取り扱いと白地に赤十字の旗を制定しました。しかし、その後の30年間はこうした輝かしい人生の前半とは大きなコントラストをなすことになります。アルジェリアでの事業は、人道問題に力を注ぎ過ぎたことも災いし難航。1867年ジュネーヴの金融機関の倒産はデュナンも巻き込み、翌1868年には詐欺罪に問われ、ました。多くの友人を巻き込んだこの事件の後、デュナンはジュネーヴの社会から事実上追放され、数年後には、ほとんど物乞いをするような生活を送るようになりました。深く失望したデュナンは、ジュネーブを去り1875年、小さな町ハイデンに移り住み、ここで残りの生涯の18年間を過ごすことになります。だがデュナンは完全に忘れ去られたわけではありませんでした。1895年ドイツのジャーナリスト、ゲオルグ・バウムベルガーがデュナンについての記事を書き、それが世界の新聞に取り上げられたのです。デュナンは再び世間の注目を浴びるようになりました。1901年、デュナンは国際赤十字運動の基礎を築き、ジュネーヴ条約を創設した功績をたたえられ初のノーベル平和賞を贈られました。だがその後、1910年10月30日に特別な葬儀もなくチューリヒで埋葬されました。なるほど、そういう歴史があったのか。勉強になりました。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-02-15 06:35 | 海外 | Comments(0)
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