『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』 (その二)

 そしてもう一つ、『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(前泊博盛 創元社)が教えてくれた衝撃的な事実を紹介します。それは…

 日本は法治国家ではない

 …という事実です。皮肉でもレトリックでもなく、ほんとうに日本は法治国家ではないのです。なにしろ米軍基地をめぐる最高裁での審理において、最高検察庁がアメリカの国務長官の指示通りの最終弁論を行ない、田中耕太郎最高裁長官は大法廷での評議の内容を細かく駐日アメリカ大使に報告したあげく、アメリカ国務省の考えた筋書きにそって判決を下したことが、アメリカ側の公文書によってあきらかになっているのです。(p.239)

 そう、砂川事件に関して、東京地裁の伊達秋雄裁判長が、在日米軍の違憲判決を出した、いわゆる「伊達判決」です(1959.3.30)。安保条約改定直前ということもあって、あわてふためいた日米両政府は協力して事を進め、跳躍上告の結果、なんとわずか九ヵ月弱のスピード審理で、在日米軍は違憲ではないという最高裁判決が出されます(1959.12.16)。さらに問題なのはその判決の内容です。以下、長文ですが引用します。筆者の言にあるように、これは戦後史最大の事件かもしれません。
 しかしこの判決のもつ最大の意味は、判決要旨六の内容です。「安保条約のごとき、主権国としてのわが国の存立の基盤に重大な関係をもつ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否かの法的判断は、(略)裁判所の司法審査権の範囲外にある」
 これこそ「戦後日本」という国家の中枢をなす条文です。それはなぜか。この判決文は「安保条約のような高度な政治性をもつ事案については憲法判断をしない」とのべています。ところが判決要旨一と七でもとくに言及されている「憲法第98条第2項」(「日本国が締結した条約および確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」)の一般的解釈では、「条約は憲法以外の国内法に優先する」となっています。ですからこの最高裁判決と、憲法第98条第2項の一般的解釈を重ねあわせると、…安保を中心としたアメリカとの条約群が日本の法体系よりも上位にあるという戦後日本の大原則が確定するのです。
 …この…ロジックもまた、アメリカ国務省が「長年の研究」にもとづいて考案したものだった可能性が非常に高いと思います。…
 砂川判決のもつ最大のポイントは、この判決によって、GHQ=アメリカ(上位)>日本政府(下位)という、占領期に生まれ、その後もおそらくウラ側で温存されていた権力構造が、安保を中心としたアメリカとの条約群>日本政府(下位)という形で法的に確定してしまったことにあります。…
 さらにもうひとつ、大問題があります。こうしたウラ側の権力構造が法的根拠を得た結果、今度はアメリカだけでなく、アメリカの意向をバックにした日本の官僚たちまでもが、日本の国内法を超越した存在になってしまったということです。
 注目していただきたいのは、「憲法判断ができない」と最高裁が決めたのが、「安保条約」そのものではなく、「安保条約のごとき、高度の政治性を有するもの」というあいまいな定義になっているところです。ここにアメリカ自身ではなく、「アメリカの意向」を知る立場にある(=解釈する権限をもつ)と自称する日本の官僚たちの法的権限が生まれるのです。
 砂川裁判の判決を読めば、少なくとも「国家レベルの安全保障」に関しては、最高裁は憲法判断ができず、この分野に法的コントロールがおよばないことは、ほぼ確定しています。おそらく昨年(2012年)改正された「原子力基本法」に、こっそり「わが国の安全保障に資することを目的として」という言葉が入ったのもそのせいでしょう。これによって今後、原子力に関する国家側の行動はすべて法的コントロールの枠外へ移行する可能性があります。どんなにメチャクチャなことをやっても憲法判断ができず、罰することができないからです。
 すでにいまから35年前の1978年、周辺住民が原子炉の設置許可取り消しを求めて争った伊方原発訴訟の一審判決で柏木賢吉裁判長は、「原子炉の設置は国の高度の政策的判断と密接に関連することから、原子炉の設置許可は周辺住民との関係でも国の裁量行為に属する」とのべ、1992年の同訴訟の最高裁判決で小野幹雄裁判長は、「〔原発の安全性の審査は〕原子力工学はもとより、多方面にわたるきわめて高度な最新の科学的、専門技術的知見にもとづく総合的判断が必要とされる」から、「原子力委員会の科学的、専門技術的知見にもとづく意見を尊重して行なう内閣総理大臣の合理的判断にゆだねる」のが適当(相当)であるとのべていました。
 このロジックは、先に見た田中耕太郎長官の最高裁判決とまったく同じであることがわかります。三権分立の立場からアメリカや行政のまちがいに歯止めをかけようという姿勢はどこにもなく、アメリカや行政側の判断に対し、ただちに無条件でしたがっているだけです。田中耕太郎判決のロジックは「統治行為論」、柏木賢吉判決のロジックは「裁量行為論」と呼ばれますが、どちらも内容は同じです。こうしてアメリカが米軍基地問題に関してあみだした「日本の憲法を機能停止に追いこむための法的トリック」が、次は原子力の分野でも適用されるようになってしまった。その行きついた先が、現実に放射能汚染が進行し、多くの国民が被曝しつづけるなかでの原発再稼働という狂気の政策なのです。(p.253~7)

 「政府は憲法に違反する法律を制定することができる」
 これをやったら、もちろんどんな国だって亡ぶに決まっています。しかし日本の場合はすでに見たように、米軍基地問題をきっかけに憲法が機能停止に追いこまれ、「アメリカの意向」をバックにした行政官僚たちが平然と憲法違反をくり返すようになりました。すでにのべたとおり憲法とは、主権者である国民から政府への命令、官僚をしばる鎖。それがまったく機能しなくなってしまったのです。
「『法律が憲法に違反できる』というような法律は、いまはどんな独裁国家にも存在しない」と、早稲田大学法学部の水島朝穂教授は言います。
 しかし、現在の日本における法体系は、ナチスよりもひどい。法律どころか、「官僚が自分たちでつくった省令や行政指導」でさえ、憲法に違反できる状態になっているのです。(p.258)
 すこしでも関心があれば、1500円の身銭を切れば、克明にわかることなのに。日本人の思考停止と無知と無関心の深淵は計り難い…
by sabasaba13 | 2016-05-27 06:37 | | Comments(0)
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