それにしても、"内務省都市計画課の「健康住宅地」プラン"というのがいたく気になります。あの官僚の牙城、内務省がなぜ健康住宅地をつくったのでしょうか。こういう時にはインターネットが便利ですね、「株式会社ジー・シー・エス」の
ホームページに関連する記事がありましたので、小生の文責でまとめてみます。もともと常盤台は東武鉄道によって宅地開発されました。関東大震災後、東京近郊地の住宅需要の急激な増加に対応して、1928(昭和 3 )年に買収した北豊島群上板橋村の土地を、武蔵常盤駅を中心に常盤台住宅地として宅地造成をはじめました。当初の設計は、従来型の碁盤目の区画割りだったそうです。理想的な街づくりをめざしていた根津嘉一郎社長は、住宅地全体のデザインを、従来とはまったく異なる思想でとらえ直すため白紙に戻し、内務省都市計画課の全面的な指導によることとしました。常盤台の設計者は、東京帝国大学建築学科を卒業して内務省官房都市計画課第二技術掛に配属されたばかりの 23 歳の青年、小宮賢一。常盤台のアーバンデザインの特徴は曲線を採用した街路パターンです。(1)駅前北口の大規模なロータリー。(2)中央に街路が植栽された、常盤台を一周する環状の散歩道プロムナード。(3)中央に植栽を持つ小さいロータリー状のクルドサック(cul-de-sac:袋小路)。(4)プロムナード沿いの 3 ヶ所の幼児公園-ロードベイ。というわけで、行政(国)と民間が一体によって開発した、唯一といってよいユニークな住宅地です。1936(昭和11)年から分譲を開始しましたが、日中全面戦争が勃発したのがその翌年。あと数年開発が遅れていたら、常盤台住宅地の開発構想は、大幅に縮小されたり、変更を余儀なくされたりしていたかもしれません。
なるほどねえ、"土地に歴史あり"ですね。光華殿のところで触れたように、1937(昭和12)年勃発の日中戦争を機に、辛くて厳しい生活への覚悟を国民に求め、それを官僚の現実主義が支える時代が始まります。数年開発が遅れていたら、こんな素敵な住宅地は生まれていなかった可能性は高いですね。贅沢は敵だ、とばかりに。
しかし、内務省がなぜこうした優美でユニークなアーバンデザインを立案したのかという疑問は氷解しません。これに関しては、『客分と国民のあいだ 近代民衆の政治意識』(吉川弘文館)の中で述べられている、牧原憲夫氏による以下の指摘がヒントになりそうです。
とはいえ、社会政策や普通選挙制は米騒動や「社会主義」の力だけで実現したのではない。第一次世界大戦の経験は総力戦体制構築の必要性を政府・軍部に痛感させた。戦時における営業の自由・契約の自由を制限した軍需工業動員法が1918年に制定されたのはその反映だろう。長期にわたり国力のすべてを投入する消耗戦を勝ち抜くには、国家利益にもとづく経済活動の調整が不可欠であり、さらには国民が国家との一体感を持ち続けなければならない。そのためには国民の生活を安定させ、国民統合を一層進めるほかない。社会政策は総力戦の遂行にとって不可欠なのだ。(p.225)
満州事変の勃発は1931(昭和6)年。『岩波ブックレット シリーズ昭和史 №2 二・二六事件』(須崎慎一 岩波書店)によると、1933年に入ると、既成政党側に、「憲政常道」への復帰をもとめる声が高まってきます。そこには、満州事変下の「非常時」といわれた緊張した状況の弱まりと、国民の排外主義的熱狂のおとろえがありました。軍部の真崎甚三郎参謀次長は、その日記に、「国民一般に今や平静に馴れ、人心弛緩し、稍もすれば軍を離反せんとしつつあり、特に政界、財界に於て然り」と記しています。そうした状況の中で、国民生活を安定させるためのテストケースとして、内務省が推進した計画なのかもしれません、憶測ですが。
いずれにせよ、興味を引かれる街ですね。こんど是非訪れてみたいと思います。