江戸東京たてもの園編(9):(14.9)

 そしていよいよ本園の白眉、前川國男邸です。解説板を転記します。
 前川國男邸は、品川区上大崎に1942年(昭和17)に建てられた住宅である。この建物は前川國男建築事務所によって設計され、戦時体制下、建築資材の入手が困難な時期に竣工した。
 前川國男(1905~1986)は、東京文化会館(1961)、東京都美術館(1975)をはじめ、公共建築を中心に多くの作品を残し、日本の近代建築の発展に大きく貢献した。
 大きな三角屋根、広い大きな開口部と窓、中心を貫く棟持柱、ほれぼれするような外観です。内部もまた素晴らしい。外観からは想像もできないような広々とした居間には、大きな窓と開口部から光が燦々とそそがれています。その開口部は、上半分がガラスと格子、下半分が障子というシャープで洒落た意匠です。ここから階段で中二階に上がることができ、空間構成に変化を与えています。陶磁器などを展示するガラスケースや、厨房と居間をつなぐ配膳のための小窓など、細やかな心遣いが感じられました。戦時下という厳しい状況の中でも、これほどの素晴らしい建築ができるのですね。前川氏の手腕には脱帽です。
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 なお、この建物に関する藤森照信氏の委細をつくした解説があったので転記します。
 南側(庭側)を見てから玄関側(北側)に回ると、中2階が少し迫り出し、棟持柱の上にのっているように見える。こちら側は棟持柱というよりピロティの印象のほうがずっと強い。丸い独立柱とその上にのるシャープな水平連続窓、これはやはり棟持柱ではなくて、ル・コルビュジエのピロティのコンクリートの円柱の木造化、というべきだろう。
 中に入る。よい。外もよかったがもっとよい。平面と断面に精力を注ぐということはインテリアの空間をよくする結果につながる。これは自分自身への教訓。
 庭側と玄関側のガラス戸を開けると、南からの風は柱をこすってそのまま北側に吹き抜けていく。その気になれば視線はむろん人の動きもそのようにできる。まさしくコルの主張したピロティの醍醐味。
 庭に面して大きな開口部のデザインはどうだろうか。上半分はガラスだけだが、下半分には障子を入れている。障子については、実見するまで不安があった。
 障子と、もうひとつ加えて畳はマモノ。このふたつは日本の伝統に住む魔物です。とにかく近寄るときは慎重に慎重を重ね、自分の足許をしっかりさせてからにしてほしい。茶室は、どんなに下手な人がやっても茶室になり、安藤や磯崎がやっても茶室にしかならないが、それと同じ魔力が障子と畳には潜んでいて、このふたつは設計者の原理と腕の欠乏をうまく繕ってくれる代わりに、凡庸へと引きずり込む。桂もどきへと引きずり込む。
 前川の障子はどうか。大きな開口部をすっぱりふたつに分け、上半分を格子、下半分を障子としたことで、力強いコントラストが生まれ、障子のたおやかさ、繊細さから脱れることができた。と書くと、なんでたおやかさ、繊細さが脱れる対象なのか、日本の伝統の美質ではないか、と不満に思う読者もおられるかもしれない。そのとおり、美質です。
 ではあるが、ではあるが、それを素直に美質と認めがたい気持ちをもっている人がいないわけではない。その美質が、マニエリスティックな洗練で何で悪い、といわれると、21世紀の日本はそうかもしれないナア、と私の首の上は思わないわけでもないが、首から下、とりわけ下半身がついていかない。
 昭和の初期にいわゆるモダニズム(近代主義)建築が日本で成立してから、日本の伝統という明治このかたのテーマは新しい局面を迎える。一言でいうなら、スタイル(様式)としての伝統から、空間としての伝統へ、と建築家たちは関心を転換させ、モダニズム原理と伝統の間に連通管を敷設していくのだが、最初の敷設者は堀口捨己で、まず大正期にオランダのモダンデザインと茶室の間をつなぎ(紫烟荘、大正15年)、昭和に入ってから、バウハウスと桂離宮をつないでみせる(岡田邸、昭和3年)。その年、タウトがきて、あれこれいう。
 この時期、日本の伝統は桂を代表とし、それと連通管でつながる相手はバウハウスのデザインである、というのが日本のモダニズム建築界の基本的な方向であった。しかし、下半身がついていかない者はいつの建築界にもいて、その代表のレーモンドは、桂&バウハウスの強力コンビの陰で、シコシコと牙をといでいた。そして、昭和8年コルのエラズリス邸をパクリ、レーモンド夏の家をつくった。今から考えると昭和8年は日本のモダニズム史上のちょっとした年で、桂&バウハウスに非桂&コルが鋭く突っかかったのである。
 ここに、鉄筋コンクリートや鉄骨造りの本筋のモダニズム建築を舞台に開始されはじめていたバウハウス派とコルビュジエ派のデザイン闘争は、木造の伝統建築まで巻き込むことになった。
 前川は、エラズリス邸計画が練られているときにコルの事務所にいて、帰国してレーモンド事務所に入所すると、あにはからんやエラズリス邸をパクッた夏の家が設計され、実施され、完成後は所員として夏前後の2、3カ月をそこで過ごすことになる。
 であるから前川が時代の困窮の中で木造に取り組まざるを得なくなったとき、唯一の足がかりとしてあったのはレーモンドの夏の家だった。レーモンド夏の家と前川邸を比べると長くなるから止めるが、前川邸はコル派の木造の系譜の正嫡なのである。
 "コル派の木造の系譜"の本性は先に述べた"非桂&コル"のことだが、さてここで問題となるのは"非桂"つまり桂的でない木造の伝統とは具体的に何を指すのだろう。レーモンドの場合、それは農場やバンガローなどのアメリカの簡便な木造と日本の民家のふたつであった。では、前川の場合はどうか。ひとつとして、レーモンド夏の家から血を継ぐ日本の民家がある。そしてもうひとつ、これは前川が意識していたかどうかわからないが、棟持柱に象徴される伊勢。いずれも、木太さと丸太の独立柱好み、という点では似ている。
 文の冒頭、"木造でモダニズムをやることの困難と栄光"と書いたとき、前川邸は"困難"の実例になるんじゃないかと懸念していたが、完成した実物を見るとそれは"栄光"であった。
 前川邸を外から眺め、中を巡り、もう一度外から眺めたとき、サヴォア邸が思い浮かんだ。意外だし、バウハウスとは違うコルらしさが発揮される前の作を連想しては"桂&バウ"対"非桂&コル"の論旨からは困るのだが、それでも、
〈前川邸は木造のサヴォア邸である〉
という印象は深い。
 なお、青森県弘前市には、自転車で3時間ほどの距離に前川國男氏の建物が、処女作(木村産業研究所)から最晩年(斎場)まで8棟現存しているそうです。氏の御母堂が弘前出身であるという縁からですが、弘前城石垣修理が完了した後、桜の頃にぜひ訪れてみたいものです。
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by sabasaba13 | 2016-07-14 08:11 | 東京 | Comments(0)
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