江戸東京たてもの園編(10):(14.9)

 田園調布の家(大川邸)は、大田区田園調布に1925 (大正14)年に建てられた住宅です。趣味のよい洒落た外観が素敵ですね。なお田園調布は、渋沢栄一によって設立された「田園都市株式会社」が開発した郊外住宅地の一つで、関東大震災から一か月後の1923 (大正12)年10月より分譲が開始されました。
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 旧自証院霊屋は江戸幕府三代将軍徳川家光の側室であったお振(ふり)の方を祀った霊廟で、1652 (慶安5)年に市ヶ谷の自証寺の中に建てられました。禅宗様と和様の折衷様式で建築され、随所に極彩色の木彫や細かな金具が施された荘厳な建造物です。
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 そして惨劇の舞台となった高橋是清です。岩波日本史辞典と解説板から引用します。
高橋是清 1854‐1936 官僚、銀行家、大蔵大臣。江戸生れ。渡米後、大学南校に入学。農商務省特許局長を経て、1892年日本銀行に入行、99年副総裁、日露戦争の外債募集に成功し、1906年から横浜正金銀行頭取を兼任、11年日銀総裁。13年山本内閣蔵相となり政友会に入る。18年原内閣蔵相、21年に首相兼蔵相、政友会総裁となるが22年辞職。24年に加藤護憲三派内閣の農商務相、25年辞職。27年の金融恐慌時に田中義一内閣の蔵相となり恐慌の処理を経て直ちに辞職した。満州事変後の31年犬養内閣の蔵相となり金輸出再禁止、財政支出の増大を行ない、次の斎藤実内閣にも留任し、日銀の国債引受等による財源措置により景気刺激策を続けた。しかし軍部の軍事費増額要求の中で34年に岡田内閣の蔵相として軍事費要求を厳しく抑制する予算編成方針をとり、36年2・26事件で暗殺された。

 経済通の政治家として、明治から昭和の初めにかけて日本の政治を担った高橋是清の住まいの主屋部分である。是清は、赤坂の丹波篠山藩青山家の中屋敷跡約6、600平方メートルを購入し、1902年(明治35)に屋敷を建てた。総栂普請の主屋は、複雑な屋根構成をもっており、また当時としては高価な硝子障子を、縁回りに多量に使用している。赤坂にあったころは、主屋のほか3階建ての土蔵や、離れ座敷がある大きな屋敷だった。
 1936年(昭和11)、是清はこの建物の2階で青年将校の凶弾に倒れた(2.26事件)。敷地と屋敷はまもなく東京市に寄付され、記念公園となった。是清の眠る多磨霊園に移築され、休憩所として利用されていた主屋部分が、この場所に移築された。

 是清はこの二間を寝室と書斎に使っていた。寝室の床の間の前には文机が置いてあって、寝る前にはその机で習字をするのが習慣であった。書斎には大きな洋机が置かれ、仕事をしたり暇があると読書にふけっていたという。
 是清は1936年(昭和11)2月26日早朝、青年将校によって殺害された(2・26事件)。兵士十数名が寝室になだれ込み、白の寝巻姿で布団に座っていた是清に銃弾を浴びせ、軍刀で切りつけた。即死であった。
 是清は市民から「ダルマさん」と呼ばれ、親しみをもたれていたため、葬儀には別れを告げる人びとが多数参列した。
 波瀾に満ちた83年の生涯であった。

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by sabasaba13 | 2016-07-15 06:41 | 東京 | Comments(0)
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