京都錦秋編(5):金地院(14.11)

 というわけで、小堀遠州の手によるお庭と茶室、満喫いたしました。これまでも頼久寺円徳院、近江の孤篷庵を訪れましたが、遠州の魅力には奥深いものがあります。これからも折りを見つけて訪れる所存です。なお『シリーズ 京の庭の巨匠たち 小堀遠州』(京都通信社)の中で、熊倉功夫氏が次のように述べられていました。
 私はあくまでも茶の湯で遠州を位置づけることになりますが、利休さんが大きな文化に仕立てあげた茶の湯というのは、本来は個人的な楽しみですね。ところが、あの時代は茶の湯が政治的・社会的に大きな影響力をもった。そういう時代を演出したのが利休と秀吉、もう少しいえば戦国の大名たちです。
 しかし、そういう時代はやがて終わります。下剋上の時代は終わる。いわば下剋上の波に乗って登場した利休や秀吉が頂点に立ったとたん、下剋上は凍結させなきゃいかん。二度と下剋上が起こっては困るからです。それを政策として次々に打ち出すが、すぐには効果を発揮しない。信長は下剋上の凍結に失敗して倒れた。秀吉も太閤検地や刀狩りをやり、都市への武士の集住を進める。そういうなかで、文化の下剋上を止める政策が利休の死だと思います。秀吉は利休を殺すことで文化の下剋上を凍結しようとした。
 その秀吉もやはり倒れる。ようやく効き目が出てくるのは家康の時代ですが、そう簡単ではない。押さえ込んだものが脇からはみ出して、まともな方向から出てこない。押し曲げられ、へし曲げられた形で出てくる。これがカブキです。傾いて、まともならざるもの、これが織部です。下剋上が終わって権力者に押しつぶされようとしたとき、なにがなんでも頭をもたげようとする若者たちのエネルギーが爆発する。でも、これも押しつぶされる。幕府はカブキ物を徹底して弾圧したからです。こうして社会は安定してくる。これが遠州の時代、寛永です。
 カブキの慶長の時代が終わり、つづく元和の夏の陣で戦争は終わった。そして、寛永という時代がくる。戦国の遺風はまだまだ残るものの、社会的には寛永の時代ははるかに安定します。求められる美は、押し曲げ、へし曲げられたものではなく、伸びやかで協調性があって全体の調和を求める、それでいて斬新な美。これが寛永文化で、その寛永文化をまさに象徴するのが小堀遠州です。(p.95~6)
 なるほど、伸びやかで協調性があって全体の調和を求める、それでいて斬新な美、これこそが「きれいさび」の本質なのかもしれません。またこの旅の後に読んだ『茶の本』(岩波文庫)には、岡倉覚三(天心)の次の言葉がありました。
 宗匠小堀遠州は、みずから大名でありながら、次のような忘れがたい言葉を残している。「偉大な絵画に接するには、王侯に接するごとくせよ。」 傑作を理解しようとするには、その前に身を低うして息を殺し、一言一句も聞きもらさじと待っていなければならない。(p.69)

 遠州はかつてその門人たちから、彼が収集する物の好みに現れている立派な趣味を、お世辞を言ってほめられた。「どのお品も、実に立派なもので、人皆嘆賞おくあたわざるところであります。これによって先生は、利休にもまさる趣味をお持ちになっていることがわかります。というのは、利休の集めた物は、ただ千人に一人しか真にわかるものがいなかったのでありますから。」と、遠州は嘆じて、「これはただいかにも自分が凡俗であることを証するのみである。偉い利休は、自分だけにおもしろいと思われる物をのみ愛好する勇気があったのだ。しかるに私は、知らず知らず一般の人の趣味にこびている。実際、利休は千人に一人の宗匠であった。」と答えた。(p.73~4)
 これも含蓄のある言葉です。王侯に接するが如き念で偉大なる芸術作品に対峙すること、そして誰が王侯かを見抜く眼力を養うこと。そして自分だけにおもしろいと思われる物をのみ愛好する勇気を持つこと。肝に銘じましょう。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-08-31 06:16 | 京都 | Comments(0)
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