京都錦秋編(27):二条城(14.11)

 なお江戸初期における、徳川氏と天皇の間で行われた丁々発止の駆け引きは面白いものです。1615年に「禁中並公家諸法度」を公布して朝廷への統制を強化した家康。さらに1620年には、秀忠の娘・和子を後水尾天皇に入内させ天皇との融和を図ります。天皇の屈辱感と反発が想像できますね。1616年に家康が死ぬと、1626年に懐柔策として後水尾天皇の二条城行幸を挙行、秀忠と家光は上洛して天皇を迎えます。その際に、幕府の威信をかけて御殿を新築し、庭を改修。それを担当したのが小堀遠州でした。しかし翌年の1627年、後水尾天皇は、幕府の許可なく高僧に"紫の僧衣"を与えてしまいます。家光は、紫衣を取り上げ、抗議した沢庵らを処罰します。これが紫衣事件。幕府に反発していた後水尾天皇はこれで怒髪天を衝き、幕府の制止も聞かずに、和子が産んだ明正天皇に譲位してしまいました。859年ぶりの女帝ですね。天皇に対する統制の難しさを痛感した幕府は以後、強引な統制をやめソフトな融和策をとることになります。例えば、修学院離宮造営に対する援助もその一環です。その結果、可哀相に東福門院和子は朝廷内において孤立を余儀なくされ、やがて"衣装狂い"にのめりこんでいきました。半年間に、約一億五千万円相当の着物を購入したというのですから、これはもう狂気に犯されていたのかもしれません。そしてその注文先が「雁金屋」、そう、尾形光琳の生家です。彼女が亡くなったのは1678年、その時光琳は二十歳です。薄幸の狂気が、一人の天才芸術家を育んだ…などと想像するのも歴史を知る喜びの一つです。
 流刑にされた沢庵が居住した春雨庵、後水尾天皇の山荘(幡枝御殿)跡である円通寺修学院離宮侵入顛末記などの記事もありますので、よろしければご笑覧ください。

 そして内堀を渡って本丸へ。天守閣跡にのぼると、真っ黄色に染まった公孫樹が見えました。紅葉の盛りは終わったようですね。
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 本丸御殿を撮影してふたたび内堀を渡り、清流園へと向かいます。内堀のほとりでは鴨たちが仲良く並んで日向ぼっこをしていました。
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 途中に「加茂七石」と記されて、畚下(ふごおろしいし)石・紫貴船石・紅加茂石・糸掛石・畑石・鞍馬石・八瀬真黒石という七つの石が置いてありました。これは鴨川で産し、庭石・水石として用いられてきた銘石のことですね。
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 そして清流園に到着。この庭園は河原町二条にあった旧角倉了以の屋敷の一部、庭石、庭木等を無償で譲りうけ、さらに全国から集めた銘石を用い、1965(昭和40)年に完成しました。東半分が芝生を敷き詰めた洋風庭園、西半分は和楽庵・香雲亭という二棟の茶室を含めた池泉回遊式山水園からなる和洋折衷庭園です。小ぶりですが、バランスのとれたなかなか良い庭園です。なおこのお庭は、米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」(JOJG)が発表する2015年の「日本庭園ランキング」の第40位に選定されています。"So what"と(以下略)

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-10 07:09 | 京都 | Comments(0)
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