虐殺行脚 埼玉・群馬編(2):前口上(14.12)

 いろいろと調べたところ、殺された朝鮮人の慰霊碑は、都内だけではなく関東一円にあるそうです。これは避難してきた方々が、当地の日本人によって暴行を受け、あるいは殺害されるというケースもあったからです。今回は、埼玉県と群馬県にしぼりました。埼玉県では常泉寺・熊谷寺大原墓地・正樹院・浄眼寺・城立寺長峰墓地・安盛寺、群馬県では成道寺にあることがわかりました。旅程は一泊二日で、宿泊地は高崎。高崎・前橋の散策、および御用達の「文化遺産オンライン」で調べた教会や配水塔などの見学も織り交ぜたいと計画しました。というわけで、年の瀬もせまった2014年の師走某日の旅です。
 なお事件の概要について適確にまとめてある『シリーズ日本近現代史 大正デモクラシー』(成田龍一 岩波新書1045)から引用します。
 震災直後には、情報の不足から「大津波が来る」「大地震が再来する」などの流言が飛び交った。しかし、深刻な事態を惹き起こしたのは「朝鮮人」に関するデマである。早くも9月1日午後三時ごろに、「社会主義者及び鮮人の放火多し」という流言があり、「不逞鮮人来襲すべし」「井水を飲み、菓子を食するは危険なり」とのデマがひろがったという(警視庁『大正大震火災誌』1925年)。デマの発生については、「自然発生説」と権力者による「特定の予断」説とがあるが、デマの急速な拡大に軍隊や警察が関わっていたことは疑いない。
 ときの警視総監・赤池濃(あつし)は、かつて朝鮮で爆弾を投げられた経験を持ち、治安維持に過敏であった。震災の発生とともに軍隊が出動し、9月3日から11月15日までは、日比谷焼打ち事件以来の戒厳令が布かれた。そして、軍隊・警察は、朝鮮人や社会主義者を保護の名目のもとに検束しており、このことがデマに真実らしさを与えた。
 東京の住民たちはデマを疑わず、地域ごとに自警団を結成し、親族や知人の安否を尋ねて行き交う人々を詰問し、朝鮮人とみなすや、持っていた竹槍や鳶口により虐殺した。のちに吉野作造や金承学が調査を行い、正確な数は不明ながら、虐殺された朝鮮人は6000人を越えると推定されている。また、近年では、軍隊による朝鮮人の虐殺があったことも史料的にあきらかにされた。
 さらに、社会運動家の王希天をふくめた中国人や障害者も虐殺された。無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝とその甥が、甘粕正彦らの憲兵隊に殺され、亀戸で労働運動を行っていた平沢計七や川合義虎ら10人の活動家も、亀戸警察署内で虐殺された。これらの出来事に対して、犯人追及の手は鈍かった。
 こうしたなかで、雑誌『種蒔く人』の「帝都震災号外」(1923年10月)が、わずかに虐殺の事態を伝えている。
 朝鮮人に対して直接に手を下したのが「民衆」であったことは、植民地の人々を差別、排除しながら彼らに恐怖の心性をあわせもつ、帝国の人びとのありようを示す。これまで政府に向かい都市民衆騒擾を起こしてきた「雑業層」が、震災時には、植民地人への攻撃に加わった。朝鮮人は「日雇い」や「人足」として単純労働に携わっていたが、彼らに自分たちの職場を奪われるのではないかという、雑業層の不安が震災の事態のなかで噴出した。虐殺が起こったのは、荒川周辺など朝鮮人と職を競合する地域がみられる。(p.166~8)

by sabasaba13 | 2016-11-03 06:26 | 関東 | Comments(0)
<< 虐殺行脚 埼玉・群馬編(3):... 虐殺行脚 埼玉・群馬編(1):... >>