虐殺行脚 埼玉・群馬編(9):正樹院(14.12)

 さて熊谷駅から秩父鉄道に乗って寄居へと向かいましょう。30分ほどで寄居駅に着き、駅から数分歩くと正樹院に到着です。
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 前述の「9月、東京の路上で」から引用します。
 当時、朝鮮アメ売りというものがいた。彼らは天秤棒の両端に大きな箱をつけたものを担いで、「ちょーせんにんじーん、にんじんあーめ」と独特の節回しで声を張り上げながら、朝鮮人参が原料だというアメを子どもに売って歩くのである。簡単な芸をみせることもあったらしい。工事人夫として働いていた朝鮮人が、工事が終わり仕事がなくなったためにアメ売りになることも多かった。資本がほとんどなくてもできる商売だからだろう。
 秩父に近い埼玉県大里郡寄居町にも、朝鮮人の飴売りの若者がいた。28歳の具学永(グ・ハギョン)さんだ。彼が寄居にいついたのは2年前。それ以前はどこで何をしていたのかわからない。やはり工事人夫として働いていたのかもしれない。寄居駅の南にある浄土宗の寺院、正樹院の隣にある安宿「真下屋」に1人で暮らしていた。小柄でやせ型。おだやかで人のいい若者だったという。町の人で、声を張り上げて往来を行く彼のことを知らない者はなかった。
 9月1日の震災以降、東京の避難民が持ち込む流言と自警団結成を求める例の県の通達によって、寄居でも消防団がとりあえず自警団に衣替えしたが、橋のたもとに座っているだけでなんということもなく、ましてや具さんに危害を加えようという者はいなかった。
 それでも具さんは、不安を感じていた。あるいは、前日に熊谷で何十人もの朝鮮人が何の理由もなく虐殺された事件の報がすでに耳に届いていたのかもしれない。5日の昼ごろ、彼は寄居警察分署に現れ、自ら「保護」を求める。そうは言っても寄居は平和そのものだったので、彼は「何も仕事をせずに遊んでいては申し訳ない」と笑い、敷地の草むしりをして時間を潰していた。
 だが寄居の隣、用土村では、人々は「不逞鮮人」の襲撃に立ち向かう緊張と高揚に包まれていた。事件のきっかけをつくったのは、その日夜遅く、誰かが怪しい男を捕まえてきたことだった。自警団は男を村役場に連行する。ついに本物の「不逞鮮人」を捕らえた興奮に、100人以上が集まったが、取調べの結果、男は本庄署の警部補であることがわかった。
 がっかりした人々に対して、芝崎庫之助という男が演説を始める。「寄居の真下屋には本物の朝鮮人がいる。殺してしまおう」。新しい敵をみつけた村人たちはこれに応え、手に手に日本刀、鳶口、棍棒をもって寄居町へと駆け出していった。
 途中、具学永さんが寄居警察分署で保護されていることを知った村人は警察署に押し寄せる。朝鮮人を引き渡せと叫ぶ彼らに対し、星柳三署長は玄関先で、わずか4、5人の署員たちとともに説得に努めた。そのうちに寄居の有力者である在郷軍人会の酒井竹次郎中尉も駆けつけ、「ここにいる朝鮮人は善良なアメ売りである」と訴えるが、興奮した彼らは聞く耳をもたない。群衆は署長らを排除して署内になだれ込む。
 竹やりや日本刀で斬りつけられ、血を流しながら、具学永さんは留置房のなかに逃げ込んだ。格子の間から竹やりを突き出してくる男たちとにらみ合いがしばらく続いた後、具さんは突入した男たちにずるずると玄関先まで運ばれていき、そこで集団で暴行されて亡くなった。6日の深夜、2時から3時の間の出来事だった。
 『大正の朝鮮人虐殺事件』には、留置房のなかに追い込まれていたとき、彼がそばにあったなにかのポスターのうえに、自らの血で「罰 日本 罪無」と書いたという話が出てくる。「日本人、罪なき者を罰す」という意味ではないかという。それははっきりと抗議の意思表示だったと、同著は語る。10月、芝崎ほか12人が逮捕された。
 具学永さんの墓が、今も寄居の正樹院に残っている。正面に「感天愁雨信士」と戒名。右の側面には「大正十二年九月六日亡 朝鮮慶南蔚山郡廂面山田里居 俗名 具学永 行年 二十八才」、左の側面には「施主 宮澤菊次郎 外有志之者」と彫られている。虐殺犠牲者で、名前と出身地が分かり、さらに戒名もついているというのは珍しいという。山岸秀は「それだけ地元住民との日常関係が成立していたということである」(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)と書いている。寄居の人々にとって、具学永の死は、確かに名前と個性をもった隣人の死であった。さらに言えば、用土村という隣人による死(殺害)でもあった。

参考資料:『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)、山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺』(早稲田出版)、北沢文武『大正の朝鮮人虐殺事件』(鳩の森書房)
 それほど広くはない墓地ですので、古い墓石を丹念に訊ね歩けばすぐにわかります。あっ、ありました。
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合掌

『「戦後」の墓碑銘』(金曜日)の中で、白井聡氏が言った言葉が耳朶をよぎります。
 死者たちを救い出す方法は一つしかない。それは、かつて彼らを死に追いやり、いまわれわれを侮辱のなかに突き落としているものを、倒し葬り去ることである。(p.263)

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-11-14 07:34 | 関東 | Comments(0)
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