虐殺行脚 埼玉・群馬編(34):本庄(14.12)

 なお警察署の付帯施設として小さな木造の人民控所が残されているのは珍しい。警察署を所用で訪れた人たちがここで待たされたそうです。資料館の前には田村本陣の正門が保存されていました。
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 それでは古い橋梁である賀美橋と寺坂橋を拝見しに行きましょう。地図を片手に十数分歩いてまず賀美橋を見つけました。竣工は1926(大正15/昭和1)年、伊勢崎と本庄を結ぶ伊勢崎新道に架けられた橋で、高欄の白タイル貼の連続アーチが洒落ています。
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 寺坂橋は1889(明治22)年につくられた石橋で、関東地方に数少ない明治期建設の石橋の一つだそうです。
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 近くにあった若泉公園の入り口に、「世紀の思想家 石川三四郎翁文学碑入口」という標識があったので、後学のために寄ってみました。園内には「私は何時も 永遠を 思ふが故に 時間を限った 世業を願はない」という言葉や、事績を刻んだ記念碑がありました。「児玉の四季の散歩道」というサイトから引用します。
 石川三四郎は本庄市出身の社会思想家、アナキスト、作家。
 石川三四郎は明治9年(1876)に埼玉県児玉郡山王堂村(本庄市)の五十嵐家の三男として生まれる。幼い頃、村内の石川半三郎の養子となる。明治23年(1890)、14才で上京して、哲学館(東洋大)に入学するが、世話になっていた栃木の福田友作(自民党員)が窮乏に陥った為、帰郷する。石川三四郎は、明治30年(1899)に再上京して、東京法学院(中央大)へ21才で入学する。明治34年(1901)に卒業する。卒業後、キリスト教の洗礼を受けている。明治36年(1903)に幸徳秋水が平民社を開くと入社し、「平民新聞」に多くの論説を発表する。明治39年に、石川三四郎が足尾鉱毒事件で谷中村を訪問したことから、田中正造との関係が始まる。大正2年(1913)に37才の時、第一次世界大戦前にヨーロッパに渡る。大正9年(1920)に終戦後に帰国する。昭和2年(1927)には世田谷区(千歳村)で農業を始める。農業をしながら、作品を出していた。昭和8年(1933)には「近世土民哲学」を出している。昭和14年~昭和17年(1942)には、東洋文化史-百講の上、下巻を出している。昭和21年(1946)には、「社会美学としての無政府主義」など、数多くの著書がある。昭和31年(1956)没、80才。
 いつかは読んでみたいと思いながらも、彼の著作を手にしたことはありません。これを機に挑戦してみようかな。なお拙ブログに、田中正造と石川三四郎が見上げた榎、三四郎の友人・内山愚童の言葉についての記事がありますので、よろしければご笑覧ください。また先日読み終えた『ある弁護士の生涯 -布施辰治-』(布施柑治 岩波新書)の中に、彼の名前が出てきました。
 七月二十日、F氏の出獄記念会を機会に"自由懇談会"ができた。会員は蔵原惟郭、石川三四郎、水野広徳、三木清、秋田雨雀、高津正道、加藤勘十、F氏、その他だった。翌月、自由懇談会を母胎に"極東平和友の会"ができた。(p.85)
 旅をすること、本を読むことの喜びのひとつは、こうしてさまざまな人・事件・場所がつながって歴史が立体的に見えてくることですね。
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by sabasaba13 | 2016-12-25 08:24 | 関東 | Comments(0)
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