虐殺行脚 千葉編(4):成東(16.9)

 茂原から外房線に乗って大網へ、東金線に乗り換えて成東へ。総武本線への待ち合わせ時間が少々あったので成東駅周辺をぶらつきました。駅前にあったのが「礎」という石碑です。解説文を転記します。
 昭和二十年八月十三日、敵機グラマンの攻撃を受け、成東駅構内下り一番線に停留中の軍弾薬積載貨車は十一時四十分、火煙を発した。之を認めた国鉄職員十五名将兵二十七名は、被害を最少限度に止めようと機を失せず、身を挺して貨車の隔離消火に務め、一方旅客及び町民を避難させたが、必死の健闘も空しく十一時l五十八分弾薬はついに爆発して全員、悉く壮烈な最後を遂げ、平和の礎と化しました。
 昭和三十二年八月、十三回忌にあたりその功績を称え町民並びに鉄道職員を初め、多数の方々の御支援によりここに礎の碑を建立せられました。
 ということです。いつも思うのですが一般人や兵士の非業の死をもって"平和の礎"と表現するのは、もうやめたほうがよいのではないでしょうか。誰に戦争責任があるのか、それを究明・反省したうえで連合国側の戦争犯罪を弾劾すべきではないのか、敗戦後の平和はどのようにしてもたらされたのか、いやそもそも本当に平和だったのか。考えるべき多くのことを雲散霧消してくれる便利なマジック・ワードになっているような気がします。なお最近読んだ『日本を問い直す -人類学者の視座』(青土社)の中で、川田順造氏も下記のように鋭く指摘されていました。
 東京大空襲・戦災資料センターでは、被災者の語りも聞いた。東京都慰霊堂での追悼の辞、「この悲惨な経験を風化させることなく、次の世代に語り継がなければならない」と同じく、ここでの被災者の語りにも、3月10日の残虐行為を、綿密な計画のもとに、新型兵器を使って実行した米国に対する憤りや、その元になった日本の国策への批判はなく、こうした悲劇をくり返さないように、戦災の記憶を語り継ごうという透明・中立な呼びかけだけがあった。原爆被災者の語りにも、それは感じられる。それ自体は美しいことかも知れない。だが憤りをバネに、具体的批判を探求する努力なしに、ただ悲惨を語り継ぐことにどれだけ意味があるのだろうか。(p.299~300)
 また最近読み終えた『魂鎮への道 BC級戦犯が問い続ける戦争』(岩波現代文庫)の中で、ニューギニア戦線における兵士たちの非業な死を目の当たりにし、自身がBC級戦犯として裁かれた飯田進氏が、その体験をもとに血を吐くような批判をされています。長文ですが引用します。
 祭文というものがありますね。死者に捧げる追悼の言葉のことです。その祭文はどれを見ても不思議に一致しているところがあります。
 それは勇戦敢闘して戦死したあなたがたの尊い犠牲のおかげで、今日の経済的繁栄と日本の国際的地位の向上がもたらされている、ということです。
ぼくが違和感をいだくのは、次のような理由からです。(p.222)

 二つめは、「あなたがたの尊い犠牲のおかげで、今日の経済的繁栄がある」との事実認識のあり方です。
 ほんとうに戦死、または戦病死した将兵たちの犠牲があったから、今日の経済的な繁栄と国際的な地位の向上があったのでしょうか。
 だれでも人情的には、死を意味づけて考えたいのです。無益な死だとは思いたくないのです。しかし兵士たちの死と今日の繁栄とは、事実経過の上でも、論理的にも、ほとんと関係ないと思うのです。
 ほんとうにそうなのか、そうでないか、考えてみてください。
 日本はアメリカを主軸とする連合軍に敗れました。めぼしい都市をほとんど壊滅させられ、広島・長崎に原爆を投下され、日本は無条件降伏したのです。日本が永久に占領され、生きていく最低限の生活保障だけをされても、文句を言えない立場におかれたのです。
 しかし戦争が終わるやいなや、ソ連との間の冷戦が激化しました。否応なくアメリカは、対日占領政策のコペルニクス的転回を図らざるを得ませんでした。
 日本列島は、アメリカのアジア最大の橋頭堡として位置づけられました。その占領政策を円滑に進めるために、天皇制は温存されました。官僚制も基本的に戦前の体制のまま残されました。東京裁判はウヤムヤのうちに終わり、東条大将ら二五名の指導者たちが処罰されただけで幕を閉じました。
 そして朝鮮戦争が始まり、日本は特需景気で潤いました。日本の経済が立ち直る最初のチャンスが訪れたのです。自衛隊の前身、警察予備隊が創設されました。
 さらに一〇年後、ベトナム戦争が起きました。日本は再び戦争景気に沸き返り、そうして高度経済成長の道をひた走るようになったのです。まさに神風が戦後に吹いたのです。
 日本に戦前からの技術的蓄積があったとか、日本人が勤勉であったとか、それは経済復興の大きな理由の一つではあります。しかし戦後日本をとりまく軍事的・政治的な環境の一大変化を除外して、戦後の経済成長は考えられません。
 事実経過が明らかに示すところによりますと、日本の経済復興は、冷戦の激化と朝鮮戦争、ベトナム戦争を引き金として行なわれた、といって差し支えないでしょう。そうだとすると、兵士たちの死は、今日の経済的繁栄とどこでつながるのでしょうか。
 戦争に負けたからでしょうか。そうですね、負けたからそういう軍事的・政治的な環境がもたらされたのです。日米安保条約も締結されたのです。だがそうなると、負けたほうがよかった、負けるために兵士たちは戦い、のたれ死にをした、ということになりますね。負けたことの責任、無謀な作戦指導の責任は、誰も負わなくてよろしい、万事めでたしめでたし、そういうことになりませんか。
 それはどう考えても、没論理的です。事実の経過にそぐいません。それこそ英霊を冒?するものではないですか。
 だが大日本遺族会も数々の戦友会も、「あなたがたの尊い犠牲によって今日の繁栄がもたらされた」との認識の仕方に、死者の意味づけを求めて不思議に思いませんでした。そこからは日本にあれだけの悲劇をもたらし、まさに身内の者や、戦友を死に追いやった歴史の道筋は浮かび上がってきません。
 事実関係が違っているのですから、次の世代の若者たちに、情緒的にも論理的にも訴えかける迫力がありません。
 死者たちへの思いは、ごく僅かな親類縁者や、戦友たちの間の詠嘆で終わり、時日の経過とともに忘れ去られていきつつあります。その嘆きや痛みは、この日本の社会のなかに伝承されていく可能性がありません。現実に、そういう道筋をたどってきてはいないでしょうか。
 さらに日本の経済的繁栄は、日本人の倫理的資質の頽廃と無縁ではありません。多くの日本人が、世界中でひんしゅくを買っていることは周知の事実です。なぜでしょう。カネがあるからです。死者たちは、そのような驕りたかぶっている日本人のありようを、望んでいたのでしょうか。逆ではなかったでしょうか。日本人が謙虚な姿勢で、祖国日本の平和だけでなく、世界の平和に貢献することを、多くの死者たちは願望していた、とぼくは思います。その死者の願いに、いまの日本は反しています。「あなたがたの尊い犠牲」は、今日の日本には活かされていないのです。ぼくはその事実を、歯噛みするほど無念に思います。(p.224~7)
 なお碑文の揮毫は「日本国有鉄道総裁 十河信二」、そう新幹線の生みの親ですね。なおウィキペディアによると、彼は南満州鉄道株式会社(満鉄)の理事も務めたとのこと、気になる人物ですね。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-01-28 06:30 | 関東 | Comments(0)
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