虐殺行脚 千葉編(7):馬込霊園(16.9)

 松尾駅から千葉行の総武本線に揺られること約50分、千葉駅で総武線快速に乗り換えて十数分で船橋駅に到着です。そしてJR船橋駅北口から「鎌ケ谷大仏」行きバスに乗車、「馬込霊園入口」で下車して約10分歩くと船橋市市営馬込霊園に着きました。こちらには「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」があるのですが、さて広大な霊園ゆえ当てずっぽうというわけにはいきません。幸い、事務所がすぐ眼前にあったので訊ねてみると、すぐに教えてくれました。事務所から目抜き通りを数分歩くと、通りに面して右手にあるのですぐにわかりました。
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合掌

 碑文には「西紀一千九百四十七年三・一革命記念日竣成」、「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」、「在日朝鮮人連盟中央本部建之」と刻まれています。
 それではここで何が起きたのか。幸い、田中正敬氏による「関東大震災時の朝鮮人虐殺と地域における追悼・調査の活動と現状」という詳細な報告に出会えましたので、引用します。
 千葉県では少なくとも船橋、習志野、八千代、浦安、行徳、松戸、我孫子、馬橋などで朝鮮人虐殺が起こったといわれている。また、このほかに成田や佐原、福田・田中村などで日本人が虐殺された。この中で最も解明が進んだのが現在の船橋・習志野・八千代市における虐殺事件である。以下、この調査を行なった「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の成果である『いわれなく殺された人びと─関東大震災と朝鮮人』(青木書店、一九八四年)に依拠しつつ、概要を見ることとしたい。船橋では東京近郊で地震による倒壊の難を逃れていた海軍の送信所から無線により朝鮮人の流言が流され、また送信所長は近隣住民に武器を持たせて警戒態勢を敷いた。そのことが背景となって、北総鉄道の建設工事に携わっていた朝鮮人労働者が犠牲となったことは前述したとおりである。一方、千葉県の習志野には騎兵第十三~十六連隊が駐屯していた。騎兵連隊は震災後に東京や横浜方面に出動し、東京下町の亀戸事件や大島町の虐殺事件を引き起こしている。ここには九月五日に朝鮮人を保護するためとして「陸軍習志野支鮮人(ママ)収容所」が作られ、被災し危うく死を逃れた朝鮮人が収容された。ところが、その中に朝鮮語がわかる憲兵が入って朝鮮人を思想調査し、「おかしいような者」を特定し軍隊が殺してしまった。そればかりでなく、近隣の村にも朝鮮人を下げ渡して住民に殺させたという事件が起こった。少なくとも八千代の村の各地区で十八名を分けて殺したことが明らかとなっている。船橋では事件の翌年、日本人により「法界無縁塔」という碑が建てられた。この碑は西福寺の当時の住職を中心に船橋仏教会が建立したものであったが、ここには犠牲者の名前はもとより事件を連想させるような文言は一切書かれなかった。こうした問題を抱えた碑の前で、朝鮮人犠牲者の同胞は追悼行事を行なっていたが、一九四七年に在日朝鮮人は新しい追悼碑「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」を建立した。碑の裏面には関東大震災時の虐殺の経過や政府が虐殺を主導したことが朝鮮語で刻まれている。以上のように、船橋での事件の追悼行事は朝鮮人により担われたのであり、追悼式は現在も船橋市の馬込霊園で続けられている。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-02-01 06:29 | 関東 | Comments(0)
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