虐殺行脚 東京編(1):八広(16.10)

 関東大震災虐殺行脚の旅、いよいよ地元の東京で大団円をむかえます。『ヨーロッパ退屈日記』(伊丹十三 新潮文庫)をバッグに入れて、いざ出発。

 練馬駅から都営地下鉄十二号線に乗って新宿へ、都営新宿線に乗り換えて馬喰横山へ、そして都営浅草線に乗り換えて八広駅で下車。墨田区八広6-31-8にある追悼碑を訪れました。印刷して持参した地図を片手に、かつて惨劇が起きたことなど想像もできない静謐な町のなかをすこし歩くと、すぐに見つかりました。家と家に挟まれた小空間に、無骨ながらも力強く「悼」と刻まれた小さな碑でした。

 合掌

 裏に刻まれていた碑文を転記します。
 一九二三年関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言飛語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。
 東京の下町一帯でも、植民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。
 この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの碑を建立する。
二〇〇九年九月
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会
グループ ほうせんか
 またそのとなりには、建立した由来についての説明がありました。
 関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難追悼碑 建立にあたって

 一九一〇年、日本は朝鮮(大韓民国)を植民地にした。独立運動は続いたが、そのたび武力弾圧された。過酷な植民地政策の下で生活の困窮がすすみ、一九二〇年代にはいると仕事や勉学の機会を求め、朝鮮から日本に渡る人が増えていた。
 一九二三年九月一日 関東大震災の時、墨田区では本所地域を中心に大火災となり、荒川土手は避難する人であふれた。「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が攻めてくる」等の流言蜚語がとび、旧四ツ木橋では軍隊が機関銃で韓国・朝鮮人を撃ち、民衆も殺害した。
 六〇年近くたって荒川放水路開削の歴史を調べていた一小学校教員は、地元のお年寄り方から事件の話を聞いた。また当時、犠牲者に花を手向ける人もいたと聞いて、調査と追悼を呼びかけた。震災後の十一月の新聞記事によると、憲兵警察が警戒する中、河川敷の犠牲者の遺体が少なくとも二度掘り起こされ、どこかに運び去られていた。犠牲者のその後の行方は、調べることができなかった。
 韓国・朝鮮人であることを理由に殺害され、遺骨も墓もなく、真相も究明されず公的責任も取られずに八六年が過ぎた。この犠牲者を悼み、歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う、民間の多くの人々によってこの碑は建立された。

二〇〇九年九月
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会
グループ ほうせんか

 本日の一枚です。
虐殺行脚 東京編(1):八広(16.10)_c0051620_6281433.jpg

by sabasaba13 | 2017-03-08 06:29 | 東京 | Comments(0)
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