虐殺行脚 東京編(2):八広(16.10)

 なおこの事件については、『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(加藤直樹 ころから)に詳細な叙述があります。長文なのですが、とても大事なことですので引用します。
薪の山のように 1923年9月2日 日曜日 午前5時 荒川・旧四ツ木橋付近

 (9月1日)午前10時ごろすごい雨が降って、あと2分で12時になるというとき、グラグラときた。「これ何だ、これ何だ」と騒いだ。くに(故国)には地震がないからわからないんだよ。それで家は危ないからと荒川土手に行くと、もう人はいっぱいいた。火が燃えてくるから四ツ木橋を渡って1日の晩は同胞14人でかたまっておった。女の人も2人いた。
 そこへ消防団が4人来て、縄で俺たちをじゅずつなぎに結わえて言うのよ。「俺たちは行くけど縄を切ったら殺す」って。じっとしていたら夜8時ごろ、向かいの荒川駅(現・八広駅)のほうの土手が騒がしい。まさかそれが朝鮮人を殺しているのだとは思いもしなかった。
 翌朝の5時ごろ、また消防が4人来て、寺島警察に行くために四ツ木橋を渡った。そこへ3人連れてこられて、その3人が普通の人に袋だたきにされて殺されているのを、私たちは横目にして橋を渡ったのよ。そのとき、俺の足にもトビが打ちこまれたのよ。
 橋は死体でいっぱいだった。土手にも、薪の山があるようにあちこち死体が積んであった。

 曺仁承(チョ・インスン)は当時22、3歳。この年の正月に釜山から来日し、大阪などを経て東京に来てから一カ月も経っていなかった。
 9月1日の夕方以降、大火に見舞われた都心方面から多くの人が続々と荒川放水路の土手に押し寄せた。小松川警察署はその数を「約15万人」と伝えている。土手は人でいっぱいだった。曺と知人たちもまた、「家のないところなら火事の心配もないだろう」と、釜や米を抱えて荒川まで来たのである。闇の中でも、都心方向の空は不気味な赤い炎に照らされていた。
 曺らが消防団に取り囲まれたのは夜10時ごろ。消防団のほか、青年団や中学生までが加わって彼らの身体検査を始め、「小刀ひとつでも出てきたら殺すぞ」と脅かされていた。何も出てこなかったので、消防団は彼らを縄で縛り、朝になってから寺島警察署に連行したのである。
 同胞たちが殺されているのを横目で見ながら曺は警察署にたどり付くが、そこでも自警団の襲撃や警官による朝鮮人の殺害を目撃し、自らも再び殺されかけた。
 証言のなかで四ツ木橋とあるのは、現在の四ツ木橋や新四ツ木橋ではなく、京成電鉄押上線の鉄橋と木根川橋の間にあった旧四ツ木橋のことである。…この橋は、震災直後の被災地域と外とを結ぶ重要なルートとなった。
 曺の証言が収められた『風よ鳳仙花の歌をはこべ』は、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」がまとめた本で、下町を中心に、朝鮮人虐殺の証言を数多く掲載している。
 そのなかには、避難民でごった返した旧四ツ木橋周辺を中心に、1日の夜、早くも多くの朝鮮人が殺害されていたとする住民の証言もある。鉄砲や木刀で2、30人は殺されたという。旧四ツ木橋ではその後の数日間、朝鮮人虐殺がくり返されることとなる。(p.30~2)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-09 06:27 | 東京 | Comments(0)
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