虐殺行脚 東京編(3):八広(16.10)

「何もしていない」と泣いていた 1923年9月 荒川・旧四ツ木橋付近

 曺仁承(チョ・インスン)は、1923年9月2日午前5時、旧四ツ木橋の周辺で薪の山のように積まれた死体を目撃したが、この付近ではその後も数日間に、朝鮮人虐殺が繰り返された。『風よ鳳仙花の歌をはこべ』には、80年代にこの付近で地元のお年寄りから聞き取った証言が数多く紹介されている。「追悼する会」が、毎週日曜日に手分けして地域のお年寄りの家をまわり、100人以上に聞き取りを行った成果であった。調査の時点で震災から60年が経っていることを思えば、最後の機会を捉えた本当に貴重なものだ。
 ただ、60年という歳月のため、日にちや時間などははっきりしないものが多い。また、実名で証言をすることに二の足を踏む人は、仮名の証言になっている。同書から、9月1日から数日間の旧四ツ木橋周辺の凄惨な状況を伝えるものとして貴重な証言をいくつか紹介する。

 「四ツ木の橋のむこう(葛飾側)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを横から切って下に落とした。旧四ツ木橋の少し下手に穴を掘って投げ込むんだ。(中略) 雨が降っているときだった。四ツ木の連中がこっちの方に捨てにきた。連れてきて切りつけ、土手下に細長く掘った穴に蹴とばして入れて埋めた」 (永井仁三郎)

 「京成荒川駅(現・八広駅)の南側に温泉池という大きな池がありました。泳いだりできる池でした。追い出された朝鮮人7、8人がそこへ逃げこんだので、自警団の人は猟銃をもち出して撃ったんですよ。むこうへ行けばむこうから、こっちに来ればこっちから撃ちして、とうとう撃ち殺してしまいましたよ」 (井伊〈仮名〉)

 「たしか三日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」 (青木〈仮名〉)

 「(殺された朝鮮人の数は)上平井橋の下が2、3人でいまの木根川橋近くでは10人くらいだった。朝鮮人が殺されはじめたのは9月2日ぐらいからだった。そのときは『朝鮮人が井戸に毒を投げた』『婦女暴行をしている』という流言がとんだが、人心が右往左往しているときでデッチ上げかもしれないが…、わからない。気の毒なことをした。善良な朝鮮人も殺されて。その人は『何もしていない』と泣いて嘆願していた」 (池田〈仮名〉)

 「警察が毒物が入っているから井戸の水は飲んでいけないと言ってきた」という証言も出てくる。
 北区の岩淵水門から南に流れている現在の荒川は、治水のために掘削された放水路、人工の川である。1911年に着工し、1930年に完成したものだ。1923年の震災当時には水路は完成し、すでに通水していたが、周囲はまだ工事中で、土砂を運ぶトロッコが河川敷を走っていた。建設作業には多くの朝鮮人労働者が従事していた。彼らは、日本人の2分の1から3分の2の賃金で働いていたのだが、まさにその場所で殺されたのである。(p.52~4)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-10 06:30 | 東京 | Comments(0)
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