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兵隊の機関銃で殺された 1923年9月 旧四ツ木橋 『風よ鳳仙花の歌をはこべ』には、自警団など一般の人々による朝鮮人虐殺だけでなく、軍による朝鮮人虐殺についての証言もいくつも掲載されている。 一般的に、関東大震災時の朝鮮人虐殺というと、自警団が朝鮮人を殺した事件というイメージで固まっている。もちろん、それは誤りではない。しかし、それだけでは行政が果たした役割が抜け落ちてしまう。正力松太郎などの警視庁幹部、そして内務省警保局などが、流言を事実ととらえて誤った情報を拡散していたことについてはすでに触れた。正力は、2日の時点では軍も朝鮮人暴動を信じていたと語っている。 実際、軍の記録を見ると「目黒、世田ヶ谷、丸子方面に出動して鮮人を鎮圧」「暴動鮮人沈(鎮)圧の為、一中隊を行徳に派遣す」などの文字が出てくる。 近衛師団とともに戒厳の主力を担った第1師団の司令部は、3日には「徒党せる鮮人の暴行は之を認めざる」という判断に落ち着いたものの、各地に進撃した部隊は、多くの朝鮮人を殺害していた。 前掲書によれば、旧四ツ木橋周辺に軍が来たのは2日か3日ごろという以上はわからないという。ここでは日付は区切らず、旧四ツ木橋周辺での軍による虐殺の証言をいくつか紹介する。 「四ツ木橋は習志野の騎兵(連隊)でした。習志野の兵隊は馬で来たので早く来ました。なんでも朝鮮人がデマを飛ばしたそうで…。それから朝鮮人殺しが始まりました。兵隊が殺したとき、みんな万歳、万歳をやりましたよ。殺されたところでは草が血でまっ黒くなっていました」 (高田〈仮名〉) 「一個小隊くらい、つまり2、30人くらいいたね。二列に並ばせて、歩兵が背中から、つまり後ろから銃で撃つんだよ。二列横隊だから24人だね。その虐殺は2、3日続いたね。住民はそんなもの手をつけない、まったく関知していない。朝鮮人の死体は河原で焼き捨てちゃったよ。憲兵隊の立ち合いのもとに石油と薪で焼いてしまったんだよ」 (田中〈仮名〉) 「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人くらいずつ朝鮮人をしばって並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね」 (浅岡重蔵) 「9月5日、18歳の兄といっしょに二人して、本所の焼けあとに行こうと思い、旧四ツ木橋を渡り、西詰めまで来たとき、大勢の人が橋の下を見ているので、私たち二人も下を見たら、朝鮮人 10人以上、そのうち女の人が1名いました。兵隊さんの機関銃で殺されていたのを見て驚いてしまいました」 (篠塚行吉) (p.76~8)
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