虐殺行脚 東京編(6):八広(16.10)

悼む人々 「四ツ木橋」のたもとに建った碑

 1970年代。足立区の小学校で教鞭をとっていた絹田幸恵は、研究熱心な先生だった。近くを流れる荒川放水路が人工の川であることを子どもたちに教えるために、自分の足で放水路の歴史を調べ始めたのである。土木工事について基礎から勉強し、関連部署に通って資料を集め、話を聞く。さらに絹田は、土地の老人たちに開削当時のことを聞いて歩くようになった。
 77年ごろのある日、一人の老人を訪ねた絹田は、その話に衝撃を受ける。関東大震災のとき、荒川にかかっていた旧四ツ木橋周辺で大勢の朝鮮人が殺され、その遺体が河川敷に埋められたというのだ。老人は「お経でも上げてくれれば供養にもなるのだが」とつぶやいた。
 「大変なことを聞いてしまった」。絹田はそう思った。その後も、何人もの老人たちから同様の話を聞いた。絹田は、いまだ埋もれているであろう朝鮮人たちの遺骨を発掘し、老人の言う「供養」を実現したいという思いをふくらませていく。
 どうしたら発掘が実現するのか、どうすれば「供養」になるのか。分からないまま、たった一人で模索を始めた彼女だったが、次第に志を共有する仲間たちが集ってきた。こうして82年、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」(後に「慰霊」から「追悼」に改名)が発足する。この年、行政との交渉の結果、ごく短期的な試掘が許され、遺体が埋まっている可能性が高い堤防と河川敷のうち、発掘が可能な河川敷3ヵ所を試掘することができた。
 だが遺体は出てこなかった。その後、1923年11月半ばに、警察が2度にわたってこの一帯を掘り返して遺体を持ち去っていたことが、当時の新聞資料でわかった。「追悼する会」は、その後も地域での聞き取りを続けた。証言者の数は10年間で100人を超える。1923年9月の旧四ツ木橋の惨劇は、こうした努力によって明らかにされてきたのである。
 遺骨の収集が果たせなかった「追悼する会」は、「供養」を追悼碑の建立によって行うことを決める。絹田と仲間たちの、新しい目標だった。
 「朝鮮人の殺された到る処に鮮人塚を建て、永久に悔悟と謝罪の意を表し、以て日鮮融和の道を開くこと。しからざる限り日鮮親和は到底見込みなし」
 震災の1年後、「民衆の弁護士」と呼ばれた山崎今朝弥が書いた一文である。植民地支配を美化するスローガンとして当時、「内鮮融和」という言葉が使われており、山崎の「日鮮融和」もそれを連想させる表現だが、彼の思想性を考えれば、ここでは「日朝両民族の和解」といった意味で使っているのだろう。
 震災後、朝鮮人虐殺の事実が広く明らかになったにもかかわらず、政府や行政はその責任をまったく認めず、もちろん政府としての謝罪もなされなかった。わずかな数の自警団員が、非常に軽い刑に服しただけであった。
 追悼の動きはないわけではなかったが、やはり不十分なものだった。山崎の言うような「塚」は、埼玉、群馬、千葉など、ひどい虐殺があった場所で民間の手によって確かに建てられたが、その碑文には朝鮮人たちが虐殺によって命を落としたという事実を明記したものはひとつもなかった。約100人が殺されたと見られる埼玉県本庄市でも、震災の翌年、慰霊碑が建立されたが、そこにはただ「鮮人之碑」とだけ彫られていたのである。朝鮮人の理不尽な死を悼む思いがあるからこそ、彼らは慰霊碑を建てたのだろうが、その一方で、地域の人々こそが彼らを殺したのだという重い現実を直視できなかったのであろう。
 もちろん、当局がそれを望まなかったことも大きい。朝鮮人団体や労働組合、キリスト教徒などは震災直後から抗議集会、あるいは追悼集会を開いたが、それらは警察の強硬な取締りを受けた。集会で朝鮮人が抗議の声をあげると、たちまち集会への解散命令が下り、警官隊がなだれ込んでくるのが常であった。政府は、虐殺の事実を忘れさせたかったのである。
 とはいうものの、首都周辺でこれだけの虐殺があったのに政府として追悼のポーズを見せないわけにはいかず、政府に近い立場の人々が集まり、震災の翌々月、10月28日に芝増上寺で「朝鮮同胞追悼法要」が開かれた。これは、死者を追悼してみせつつ、虐殺への怒りも責任も不問にする性格のものだった。まさに先に書いた「内鮮融和」を狙ったものである。東京府知事や国会議員たちが、神妙な顔つきで列席した。
 このとき、ひとつのトラブルが起きたことが記録されている。法要の発起人にも名を連ねた朝鮮人の作家、鄭然圭(チェン・ヨンギュ)の弔辞朗読を認めずに式を進めようとして、主催者が鄭の抗議を受けたのである。鄭はその数日前、新聞の取材に対して、司法省の発表した朝鮮人被殺者数(233人)は桁がひとつ違っているのではないか、罪は自警団のみで警察や軍の落ち度はなかったのか、とコメントしていた。そのため、主催者は鄭の弔辞を恐れていた。
 予定されていた鄭の弔辞朗読を無視して、司会が焼香に移ろうとしたとき、彼は立ち上がって霊前に進み、列席者に向かってこう叫んだ。
 「諸君は何故に私の弔辞を阻止するのだ。人類同愛の精神によって敢て主催者の一人に加わり今日の美しき法要に加わった私の立場が斯くも虐げられるとは、諸君の或る者が強いて行ったことに相違あるまい。思わざる不幸である。今日の此醜態は一生忘れることが出来ぬ」
 鄭然圭は自らも自警団に襲われ、警察に収監された経験を持つ。また惨劇後の亀戸署を取材し、ゴミ捨て場に投げ捨てられた白骨も目撃している。現実に目を背ける者たちへの怒りと無念が「美しき法要」という反語的表現に表れている。司会はこのとき、弔辞朗読を飛ばして焼香に移ったのは「多忙の際の手落ちである」と言い訳したという。
 彼は霊前に立ったまま、弔辞を読み始めた。
 「1923年10月28日 小弟鄭然圭。血涙に咽び悲嘆にくれ、燃え猛ける焔の胸を抱いて、遥々故国数千里を隔て、風俗水土異り思い冷たく瞑する能はざる異郷の空に、昼は日もすがら哭く。夜は夜な夜な夜もすがら迷い泣き廻る。故なく惨殺されてなほ訴ふるところもなき我同胞が三千の亡き霊に、腹ちぎられる思ひの追悼の辞を、同じ運命が未だ生き残りたるけふ(今日)の命ある半島二千万同胞の一人として、謹み悲しみに涙をのんで捧げまつる。願はくば諸霊よ、あまり働することなく哀しみうけ給へ」
 戦後、行政の妨害を受けずにすむようになると、在日朝鮮人による追悼碑の建立が各地で行なわれた。また日本人が主導する碑の建立もあらためて行われるようになった。それまで碑がひとつも存在しなかった東京でも、震災50年の節日となる1973年、超党派の国会・地方議員にも協力を得て、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」が横網町公園内に追悼碑を建立した。
 しかし、朝鮮人虐殺を研究する山田昭次は、戦後に日本人主導で建立された慰霊碑にも依然として問題が残されていたと指摘する。関東大震災時に朝鮮人が「殺された」ことをしっかり書くようになったのは前進としても、では「誰が殺したのか」を明確にしたものがないというのである。
 その状況を変えたのが、旧四ツ木橋で殺された人々の追悼を続けていた「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」だった。2009年8月、彼らはようやく碑の建立を実現する。それは、震災から80数年を経て初めて、「誰が殺したのか」をはっきりと直視する内容だった。

「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」
 (碑文)
 1923年 関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言蜚語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。
 東京の下町一帯でも、殖民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。
 この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの碑を建立する。
 2009年9月
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会/グループ ほうせんか

 この「追悼之碑」は、虐殺現場となった旧四ツ木橋(今は存在しない)のたもと付近にあたる土手下に置かれた。会では当初、河川敷への建立を目指していたが行政の協力を得られなかった。そのとき、この場所をゆずりたいという人が現れたのである。追悼碑の周りには、朝鮮の故郷を象徴する鳳仙花が植えられている。毎日のように掃除に来てくれる地元の人もいて、碑は常に美しく保たれている。追悼碑に手を合わせた後で、追悼する会のメンバーに「私の父は当時、朝鮮人を殺しました」と打ち明けた人もいたという。
 旧四ツ木橋の虐殺の事実を知って衝撃を受け、「供養」をしたいと願い続けた絹田幸恵は、08年2月、追悼碑の完成を見ることなく、肺炎のためこの世を去った。77歳だった。もうひとつのライフワークとなった荒川放水路の研究は、小学校教員を退職した2年後に「荒川放水路物語」にまとめられた。彼女のただ1冊の著書である同書は、91年に土木学会・出版文化賞を受賞している。
 「追悼する会」は、試掘を行った82年以来、毎年9月に「韓国・朝鮮人犠牲者追悼式」を旧四ツ木橋に近い木の根橋付近の河川敷で今も続けている。90年前、多くの朝鮮人が虐殺されたその場所である。
 2013年9月8日には、中国人犠牲者の追悼集会も行われた。「関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い」と題されたこの会には、大島で虐殺された人々の遺族が来日して参加。そのなかには、逆井橋で軍人に殺された活動家、王希天の孫の姿もあった。(p.175~81)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-13 06:56 | 東京 | Comments(0)
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