虐殺行脚 東京編(16):横網町公園(16.10)

 そして両国駅から数分歩くと、被服廠跡、現在は横網町公園に到着です。ここで何が起こったのか、『関東大震災 記憶の継承』(関東大震災90周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社)所収の『第7章 震災遭難児童弔魂像の建立と関東大震災の「記憶」』(椎名則明)から引用します。
 関東大震災で最も多くの人的被害を出した地域は、東京府本所区横網町一丁目(現・東京都墨田区横網町二丁目、横網町公園一帯)の被服廠跡であった。本所区では、17か所から出火し、海上から吹きつけた強い南風を受けて、瞬く間に密集する木造家屋を焼き払った。
 炎に煽られた近隣住民は多くの手荷物を持ち、あるいは大八車に家財道具を満載にして逃げまどい、隅田川西端に面した被服廠跡に殺到した。これより以前の1919(大正8)年に陸軍被服廠は赤羽に移転していたため、二万坪を超える広大な更地となっていたこの地は格好の避難場所と考えられ、地元の相生警察署員も罹災者を誘導した。
 こうして一旦は安堵の地を得た罹災者であったが、午後四時頃に敷地の三方から発生した火災旋風が罹災者の持ち込んだ荷物に引火し、敷地内に立錐の余地もなく密集した状態で避難していた約四万人の罹災者は逃げ場を失い、3万8000人余が焼死、または蔓延した一酸化炭素によって窒息死した。江戸時代よりすでに災害時に多くの荷物を持ち出すことの危険性は指摘され、これを禁ずる法令も出されていたが、その教訓は活かされることはなかった。
 東京市は市内で最も悲惨を極めた被服廠跡を震災犠牲者の弔祭場とすることとし、1923(大正11)年10月、仮納骨堂を建設した。このため東京市は以前に策定していた造園計画を大幅に変更して、24年2月、中央に震災記念堂を置く公園の設計案を作成し、市議会の承認を得た。
 また、東京市は震災から一年を迎えた同年9月1日、大震災善後会と震災同情会の寄付金五万円を基金として、東京震災記念事業協会を組織し、広く一般から寄付金を募集するとともに、翌年7月には伊東忠太らによる震災記念堂の設計案を採用し、1930(昭和5)年8月の落成を予定した。(p.93~4)

 1951(昭和26)年9月、震災記念堂は被服廠跡や市内各所で火葬された遭難者約5万8000人の遺骨に加えて、アジア・太平洋戦争の都内戦災遭難者約10万5400人の遺骨も安置し、名称を東京都慰霊堂と改めた。ここで毎年、関東大震災が発生した9月1日と東京大空襲が実施された3月10日に犠牲者追悼の法要が営まれている。(p.104)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-28 06:28 | 東京 | Comments(0)
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