虐殺行脚 東京編(24):鎌倉橋(16.10)

 そして十数分歩くと、無粋な首都高速道路の下にうずくまる鎌倉橋に到着です。
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 解説板があったので転記します。
 日本橋川に架かり、大手町一・二丁目から内神田一・二丁目に通じる橋で、外堀通りにあります。関東大震災の復興橋の一つで、昭和4年(1929)4月25日の架橋で、長さ30.1m、幅22.0mのコンクリ-ト橋です。名前の由来は、江戸城を築くときに鎌倉から石材をここの河岸(内神田寄り)に陸揚げしたので、この河岸を鎌倉河岸と呼んだことによります。
 また、この鎌倉橋には、日本本土土市街地への空襲が始まった痕跡が残っています。欄干には、昭和19年(1944)年11月の米軍による爆撃と機銃掃射の際に受けた銃弾の跡が大小30個ほどあり、戦争の恐ろしさを今に伝えています。
 へえー、これも関東大震災の復興橋なんだ。復興橋と言えば隅田川にかかる相生、永代、清洲、両国、蔵前、厩、吾妻、言問が有名ですけれど、こんなところで人知れず佇み暮らしを支える復興橋もあるのですね。
 欄干を見ると、多数の弾痕を視認することができました。窪みをなでて、飛来した戦闘機から機銃掃射を受ける恐怖をすこし体感。対抗措置のない、非対称的な戦闘ですね。ただ逃げまどい、殺戮されるのみ。もし自分の大切な人がこうした理不尽な攻撃によって殺され、しかも"付随的被害"として片づけられたとしたら…"やや遠き ものに思ひしテロリストの 悲しき心も 近づく日のあり"です。
 それにしても、景観を粉微塵に破壊する、この無様な首都高速道路は何とかならんものですかねえ。最近読んだ『東京都市計画の遺産 -防災・復興・オリンピック』(越澤明 ちくま新書1094)の中に、次の一文がありました。
 オリンピック開催に間に合うよう、整備されたインフラの一つが首都高速道路である。今日では、景観破壊の代名詞となったのが、日本橋の上を通過する首都高である。しかし、オリンピック組織委員会の会報では、誇らしげに、首都高の完成予想図を表紙に使用している。数十年経過すると価値観が変わるという良い実例が、首都高と日本橋である。
 東京に首都高速道路が必要であったことは疑いの余地がない。しかし、東京オリンピック時に実行された首都高の建設方式は、江戸以来の掘割や河川を無造作に転用し、隅田公園や神宮外苑連絡道路など貴重な緑を潰した。そのやり方があまりに粗雑であり、水や緑を軽視したのは、紛れもない事実である。(p.209~10)
 越澤氏は、無差別爆撃で焼跡となった東京を復興する事業(戦災復興事業)に、当時の都知事・安井誠一郎が不熱心であったと指摘されています。同書によると、道路の拡張などを盛り込んだしっかりとした計画はあったそうです。しかし安井都知事の判断で、計画実現のための財政支出は大幅にカット。もしこの時に計画を実行していれば、交通量の増加に対して充分に対応できたのではないでしょうか。そしてオリンピックに向けて、美しい掘割や公園を台無しにするような、粗雑な高速道路網を手っ取り早くつくってしまう。やるべき時にやらず、やるとなったら手を抜く、そういう都知事でした。広島市の平和通りや仙台市の定禅寺通りは、戦災復興事業として知事の判断でつくられたそうです。東京でも充分に可能だったはずなんですが。
 そして安井誠一郎は公選による初めての都知事ですから、これは都民の意思でもあります。その後も、都民はあの石原慎太郎を三選させてしまうのですね。やれやれ、と溜息をつきながら帰途につきました。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-06 06:26 | 東京 | Comments(0)
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