東京散歩(水門・教会)編(2):カトリック築地教会(15.1)

 京急雑色駅から平和島まで行き、都営地下鉄浅草線直通の列車に乗って東銀座へ。日比谷線に乗り換えて築地駅に到着。このあたりはかつて居留地があったところですね。幸い解説板があったので転記しておきます。
築地外国人居留地跡
 安政5年(1858)6月、江戸幕府はアメリカと修好通商条約・貿易章程に調印し、これを原型として同年にオランダ・ロシア・イギリス・フランスともそれぞれ締結しました(安政五カ国条約)。
 この条約に基づき、箱館(函館)・神奈川(横浜)・長崎新潟兵庫(神戸)の五港を開港し、江戸・大坂(大阪)の開市を取り決めました。日本における外国人居留地は、条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区として開港場・開市場の土地に設けられました。
 江戸(東京)の開市は、明治元年11月19日、明治新政府のもとで実現し、現在の明石町地区に築地外国人居留地が設定されました。
 築地外国人居留地は、商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。
 このため、築地外国人居留地で発祥・開設されたキリスト教系の学校も多く、現在も校名や所在地を変えながら発展を続けており、当地区内には発祥を記念した石碑が数多く建てられています。
 文教地区として大きな特徴を持っていた築地外国人居留地は、条約の改正によって明治32年に廃止されるまで、日本の近代化に多大な影響を与えた一地区を形成していました。
 明石町と聞くと、鏑木清方の名作「築地明石町」を思い起こしますね。ああいう女性とすれ違えるような町の風情はもうありませんが。余談ですが、「清方の女はいずこ春の宵」という戯れ句をつくったら、同僚の女性に「清方の女はここよ春の宵」と切り返されました。
 まずは、まるで神殿のようなカトリック築地教会へ。解説文を転記します。
 カトリック築地教会は、明治4年(1871)にパリ外国宣教会のマラン神父が、鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて開いた「稲荷橋教会」がその前身とされます。明治7年(1874)、神父は宣教会の名義で築地居留地35・36番を借り受け、ここに司祭館と聖堂を建てました。明治11年(1878)には、ここにゴシック様式の聖堂が献堂されますが、この聖堂は関東大震災で焼失し、現在の聖堂が昭和2年に再建されました。聖堂は石造りに見えますが、実は木造建築で、壁面をモルタル塗りとしています。
 また、旧聖堂で使用された鐘は、1876年(明治9年)にフランスのレンヌで製作され、当時の司祭であるルマレシャル神父から「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と名付けられたもので、現在も教会に保管されています。
 教会聖堂と鐘は、かつて外国人居留地のあった明石町に残された貴重な文化財として、中央区民文化財に登録されています。

 本日の一枚です。
東京散歩(水門・教会)編(2):カトリック築地教会(15.1)_c0051620_6261733.jpg

by sabasaba13 | 2017-06-28 06:27 | 東京 | Comments(0)
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