東京散歩(水門・教会)編(3):聖路加国際病院(15.1)

 そして聖路加国際病院へ。十字架をかかげた塔屋を中心に、鳥が翼をひろげたようなシャープな造型は、このあたりのランドマークですね。1902(明治35)年、ルドルフ・トイスラー博士(1876~1934)が、当時荒廃していたキリスト教系の病院である「築地病院」を買い取り、「聖路加病院」を設立したことに始まります。1923(大正12)年の関東大震災での被災を経て、皇室からの下賜金を始め米国聖公会・米赤十字などの寄付金などにより新築されたのが、現在残る建物です。設計の当初原案は当時日本で活動していた外国人建築家の一人であるアントニン・レーモンド(1888~1976)によるものでいたが、無装飾のモダニズムデザインが病院側の不評を買い、ジョン・バン・ウィ・バーガミニー(1888~1975)に実施設計が委ねられたとされています。なお『建築探偵 神出鬼没』(藤森照信 朝日新聞社)によりますと、素晴らしいチャペルがあるそうなので再訪を期したいと思います。(p.126)
 敷地内には、1933(昭和8)年、トイスラー院長が、宣教師会館および迎賓館として建てた建物が、「トイスラー記念館」として保存されていました。
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 築地駅に戻り、地下鉄日比谷線に乗って茅場町へ、地下鉄東西線に乗り換えて飯田橋へ、そして地下鉄南北線に乗り換えて赤羽岩淵へ。ここから十五分ほど歩くと旧岩淵水門に到着です。解説板を転記します。
旧岩淵水門のあらまし
 昔、荒川下流部分は現在の隅田川の部分を流れていましたが、川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。そのため、明治44年から昭和5年にかけて新しく河口までの約22kmの区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。
 現在の荒川と隅田川の分かれる地点に、大正5年から大正13年にかけて造られたのがこの旧岩淵水門(赤水門)です。その後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和50年から新しい水門(旧岩淵水門の下流に造られた青い水門)の工事が進められ、昭和57年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。
 長年、流域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は現在子どもたちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されています。
 時代を感じさせないモダンな水門ですね。現在稼働中の青水門も遠望することができました。
 なお小耳にはさんだところでは、ここは有数の心霊スポットだそうです。「宜保鑑定事務所」によると、かつて荒川で入水自殺をすると、その死体はこの水門付近で堰き止められて発見されるということが多かったそうです。私にはそうした霊感とやらはありませんので、何も感じませんでしたが。このサイトで紹介されていた、首をすげかえられたお地蔵もいらっしゃいました。
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 本日の二枚です。
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 追記です。先日読み終えた『夕陽妄語 2』(加藤周一 ちくま文庫)に次のような一文がありました。

 不思議な、-ほとんど奇蹟に近いようなことがおこった。それは1991年11月、ロス・アンジェレスの客舎でのことで、私は1945年の秋以来、一度も会ったことのなかったL博士に再会した。
 L博士は、45年当時のL中尉である。私たちは広島の日米合同医学調査団に加わっていて、それぞれ日米両側でのいちばん若い参加者であった。私は彼と二人で、広島近郊の山村を回り、被爆患者のその後の経過を追跡調査したこともある。はるか後になってから、私はそのことを回想録『続羊の歌』のなかで書いた。
 広島から東京へ帰ったL中尉はしばらく占領軍の病院(接収した聖路加病院)で働いていた。その病院の図書室の医学雑誌を私が読めたのは、彼のおかげである。そこには太平洋戦争の間に米国で進歩した血液学の新しい情報があった。その情報を東大の内科教室へ、さらには日本の医学界へ、私はもち帰った。かくして戦後の日本医学会の復興のために、L中尉は小さいが確かな貢献をしたのである。再会したL博士に、私はそのことをいった。すると彼は、骨髄標本をつくるために中尾博士と私が広島で行っていた脊椎穿刺の技術を、米国へもち帰って紹介したといった。医学上のささやかな日米交流は、そのときすでに始まっていた。(p.18~9)
by sabasaba13 | 2017-06-30 06:26 | 東京 | Comments(0)
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