関東大震災と虐殺 1

 埼玉、群馬神奈川千葉(その一)千葉(その二)、そして東京と、関東大震災時の朝鮮人虐殺を追いかけてきました。これからも探究は続けるつもりですが、すこし立ち止まって、この出来事の全体像をまとめておきたいと思います。かなり長期の連載となりますが、おつきあいいただけると幸甚です。

 まずは受験生御用達の『詳説 日本史B』(山川出版社)から当該部分を引用します。
関東大震災の混乱
 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源としてマグニチュード7.9の大地震が発生し、中央気象台の地震計の針はすべて吹きとばされた。地震と火災で東京市・横浜市の大部分が廃虚と化したほか、東京両国の陸軍被服廠跡の空地に避難した罹災者約4万人が猛火災で焼死したのをはじめ、死者・行方不明は10万人以上を数えた。全壊・流失・全焼家屋は57万戸にのぼり、被害総額は60億円をこえた。
 関東大震災後におきた朝鮮人・中国人に対する殺傷事件は、自然災害が人為的な殺傷行為を大規模に誘発した例として日本の災害史上、他に類をみないものであった。流言により、多くの朝鮮人が殺傷された背景としては、日本の植民地支配に対する抵抗運動への恐怖心と、民族的な差別意識があったとみられる。9月4日夜、亀戸警察署内で警備に当たっていた軍隊によって社会主義者10人が殺害され、16日には憲兵により大杉栄と伊藤野枝、大杉の甥が殺害された。市民・警察・軍がともに例外的とは言い切れない規模で武力や暴力を行使したことがわかる。(p.331)
 うーむ、隔靴掻痒というか、奥歯に物をはさむというか、オブラートに包むというか、曖昧模糊とした言い回しですね。責任を問われないようにしながら重要な事実を隠蔽する、まるで官僚が書いたような文章です。

 例えば、"虐殺"を"人為的な殺傷行為"とする言い換え。人間の尊厳をふみにじるような殺し方を"虐殺"と定義するならば、数多の証言がその多発を示しています。例えば『関東大震災 記憶の継承』(関東大震災90周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社)によると…
 首が肩の際から切り取られている(永代橋)
 二十人位の首を日本刀で切っていた(砂町小学校)
 土手の桜並木に一人ずつ縛りつけ兵士が「今夜ぶった切る」(赤羽土手)
 電柱に縛られ傍らに「不逞鮮人なり、殴る蹴るどうぞ」と棍棒まで置いてある(洲崎)
 堀に飛び込んだ人に石を投げつけ、沈み、浮いたらまた投げる(上野科学博物館裏)
 遠くから石を持って打ち殺した(下谷)
 蓮田で女性の急所を竹槍で突き通して殺したのを見た(墨田雨宮ヶ原)
 腹を裂かれ胎児がはらわたの中にころがっている妊婦の陰部に竹槍が(大島)
 針金で縛り焼け残っている火の中へ放り込む(浅草公園)
 材木に縛りつけて燃えている上野駅の火中に投げ込んで焼殺(上野)
 四人を針金で縛し一升瓶の石油をぶっかけて火をつけた(被服廠跡)
 五~六人を石炭の焼け残りの火中に投げ込んだ(月島三号地) (p.141~2)
 また『関東大震災と朝鮮人虐殺』(山岸秀 早稲田出版)では次のような証言が紹介されています。
 朝鮮人は、元荒川にとび込みました。…水の中でずいぶん苦しんでがまんしていたようですが、土手に引き寄せられたとおもうと、また水の中にしゃがんでしまいました。そして立ち上がったら、川の端でつるはしを持っていた人が、それを脳天にぶっ刺し、引き寄せたのです。血と脳漿がふき出した。脳天から四筋も六筋も血が流れ、口の中へ入っていくのが目のあたりに見えました。(p.153)
 これが"人為的な殺傷行為"ですませられる殺し方でしょうか。撤退→転進、自殺攻撃→玉砕、敗戦→終戦、占領→進駐、核発電→原子力発電と同様、責任と真相を隠蔽するための官僚的言辞ですね。
by sabasaba13 | 2017-08-29 07:47 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)
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