9月2日、日曜日。軍隊がいよいよ動き始めました。9月1日午後11時より、野戦重砲兵旅団第一連隊の第一、第二、第三救援隊は所在地の千葉県国府台を出発し、橋梁の確保・延焼防止・避難民の誘導・食糧の供給など救援活動を行ないました。しかし、9月2日の朝に出発し、午前十時半に小松川に到着した第四、第五、第六救援隊は朝鮮人虐殺を始めています。(④p.44)
「望月上等兵と岩波少尉は震災地に警備の任を以てゆき、小松川にて無抵抗の温順に服してくる鮮人労働者二百名も兵を指揮して残虐した。婦人は足を引張りまたを引裂き、あるいは針金を首に縛り池になげ、苦しめて殺したり、数限りのぎゃく殺したことについて、あまりに非常識すぎやしまいかと、他の者の公評も悪い」(『久保野茂次日記』)
また9月2日早朝より出動した騎兵第十五連隊(習志野)所属の越中谷利一氏が次のような証言を残しています。(④p.46)
「とにかく、市内の連隊はもちろんのこと、東京周辺の連隊はたいてい戒厳令勤務に服したのであった。そして「敵は帝都にあり」というわけで、実弾と銃剣をふるって侵入したのであるから仲々すさまじかったわけである。ぼくがいた習志野騎兵連隊が出動したのは九月二日の時刻にして正午少し前頃であったろうか、とにかく恐ろしく急であった。人馬の戦時武装を整えて營門に整列するまでの所要時間、僅に三十分しか与えられなかった。二日分の糧食および馬糧予備蹄鉄まで携行、実弾は六十発、将校は自宅から取り寄せた真刀で指揮号令をしたのであるから、さながら戦争気分! そして何が何やら分らぬままに疾風のように兵營を後にして千葉街道を一路砂塵をあげてぶっ続けに飛ばしたのである。亀戸に到着したのは午後二時頃だったが、罹災民でハンランする洪水のようであった。連隊は行動の手始めとして先づ列車改め、というのをやった。将校は抜剣して列車の内外を調べ廻った。どの列車も超満員で、機関車につまれてある石炭の上まで蠅のように群がりたかっていたが、その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣の下に次々と倒れていった。日本人避難民の中からは嵐のように湧き起る万才歓呼の声! 國賊! 朝鮮人はみな殺しにしろ! ぼくたちの連隊はこれを劈頭の血祭りにして、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝鮮人狩りをやりだした」(『越中谷利一著作集』 p.772)
「戒厳令勤務に服した」「敵は帝都にあり」という証言は重要ですね。兵士たちが戒厳令=戦争状態という認識で、武装して東京に乗り込み、敵=朝鮮人を殺すという意識をもっていたことがわかります。
次は、騎兵第十四連隊の兵士・遠藤三郎氏の証言です。(④p.54)
「現に、私といっしょに陸軍大学を卒業した石本寅三-(最優秀で卒業した男、お父さんは陸軍大臣までやった人なんだ)-それがね、習志野の騎兵隊におり、私は国府台の連隊の方で、この地震のとき、やつがやってきましてね。そういう優秀な、陸軍大学を卒業して、しかも軍刀をもらった人ですよ、私より士官学校、三年も古い。それだけのそういう人物が"遠藤君、はさみうちをするから君の方も協力してくれ"という。騎兵隊だけでは逃がすから、私の方で退路を遮断しておいて、騎兵隊で江東方面の朝鮮人たちを皆殺しにしようというわけだ。とにかく殺せば勲章でももらえるように思っているんだから。"とんでもない、そんなバカなことするんじゃない"といって、私は反対したんだけどもね。"しかし、どうも空気はそうだぞ、殺してやらんと住民が承諾せんぞ"というんですね。」
軍民一体の興奮状態がよくわかります。それにしても"空気"が犯人の一人であるとは…絶句してしまいます。そういえば太平洋戦争を起こしたのも"空気"でしたね、「反対できる空気ではなかった」。また、「朝鮮人を殺すと勲章をもらえる」という意識を持つ兵がいたということに注目します。戒厳令下という戦争状態のなかで、異常な功名心と使命感に燃え狂っている中下級軍人の姿が彷彿としてきます。