関東大震災と虐殺 18

 こうして軍隊・警察・自警団が一体となった治安体制がつくられ、自警団も朝鮮人虐殺に加担していくことになります。それに関する証言は多々ありますが、一つだけ紹介しておきます。
 もっとも衝撃的なのは、本所かくら橋付近で「薪でおこした火の上に四人か五人の男の人が朝鮮人の手と足が大の字になるように、動かないようにもって下から燃やしているんですよ。火あぶりですよね。焼かれると皮が茶かっ色になるんです。だから焼かれている朝鮮の人は悲鳴をあげるんですが、もう弱っている状態でした。そして、殺した朝鮮の人が次々に川に放りこまれているのです」 (篠原京子の証言 『民族の棘』) (①p.156)
 また横浜の根岸で2日に起きた虐殺の様子は、以前に拙ブログで紹介しました。

 なお朝鮮人を識別するために、「十五円五十銭」などと言わせたという証言も数多く残っています。姜徳相氏は、この識別法は1912年、内務省秘第1542号、警保局長より各庁府県長宛てに出された「朝鮮人識別法」というテキストをもとに、官憲から教示されたものだと推測されています。(①p.149)

 さて、治安中枢の動きです。既述のように閣議の反対によって正式な戒厳令は出されていませんが、水野錬太郎内相が内田康哉臨時首相とともに、浜尾新枢密院副議長、伊藤巳代治顧問官の私邸を訪問し、「枢密院に諮る暇がないから内閣の責任で勅令を発布したい」と了解を求めました。こうして9月2日午後6時頃に、政府は東京市と周辺五郡に戒厳令を布告します。既述のように、戒厳令には「真正戒厳」と「行政戒厳」があり、前者は戦時、後者は内乱やクーデターなど平時の緊急事態で布告されます。よってこれは「行政戒厳」で、緊急勅令によって施行されるため枢密院の諮詢が必要です。その手続きを欠いているため、この戒厳令は違法であるという指摘もあります。そして言うまでもなく、水野・赤池・後藤のトリオが「朝鮮人の暴動」が起きたと誤認して緊急事態と捉え、過剰に反応し、なりふりかまわず施行した戒厳令です。
 そして森岡東京衛戌司令官が戒厳執行の職につくと、森岡東京衛戌司令官は、「警備に関する訓令」を発し、「万一、此の災害に乗じ、非行を敢てし、治安秩序を紊るが如きものあるときは、之を制止し、若し之に応ぜざるものあるときは、警告を与へたる後、兵器を用ふることを得」と、兵器の使用を許可しました。軍隊が兵器を使用することができる場合について規定した衛戌勤務令第12が具体的な規定をしているのにたいし、この訓令は、「非行」、「治安秩序を紊る」という抽象的な規定をしているだけに、どのような拡大解釈も可能である、問題の多いものでした。でも実際には、戒厳宣告前に、衛戌条令にもとづいて出動した軍隊は、無差別に列車を検察し、朝鮮人を拘引し、兵器を使用して大量の虐殺を開始していたのですが。(②p.132) いずれにせよ、朝鮮人が「非行」をし、「治安秩序を紊る」と軍隊が判断したら、殺害してよいというお墨付きが与えられました。

 なおこの2日の夕刻、鶴見署長・大川常吉は、身を挺して鮮人220人・中国人70人らを自警団の襲撃から救って保護しました。横浜市鶴見区の東漸寺に、彼の顕彰碑がありますので、よろしければ拙ブログの記事をご覧ください。

 このように朝鮮人を救った日本人が少ないけれどもいたことに、安堵の念を覚えます。他にも、鄭宗碩(チョン・ジョンソク)さんの祖父一家は、工場長の真田千秋さんによって命を救われました。鄭さんは、真田さんへの「感謝の碑」を建てようと、墨田区議会に陳情をして、碑を建てるために土地の提供ならびに管理の申し入れを正式にしました。ところが、その陳情は2001年3月に否決されました。その理由が、関東大震災で虐殺されたという具体的な事実は墨田区内にはないということ。もう一つは仮にその事実があって慰霊碑を建てたとしても区民の利益にはなりえないということでした。「良心と良識に欠けた決定」であると憤った鄭さんは、2001年9月1日に、墨田区向島にある法泉寺(真田家の菩提寺)に、自費をなげうって「感謝の碑」を建立しました。(⑬p.97~8)

 また2日の午後9時頃に、甲州街道沿いの東京府千歳村烏山でも虐殺が起こりました。ある土木請負人が、京王電鉄の依頼で朝鮮人労働者18名と共にトラックに乗って、地震で半壊した車庫を修理するために、笹塚方面に向かっていました。しかし、烏山附近まで来た時、竹槍を携えていた7、80名の青年団員に停車を命じられ、全員路上に立たされました。彼らは襲撃してきた朝鮮人集団と解釈し、鳶口、棍棒、竹槍等によって激しい暴行を加えて一人を刺殺し他の者にも重軽傷を負わせました。(⑧p.173~4)
 付近に住んでいた徳冨蘆花が、随筆のなかでこの事件にふれています。
 鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と壮丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事羞かしい事です。(『みみずのたはこと(下)』  岩波文庫 p.143)
 この事件で12人が起訴された時、千歳村連合議会は、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として彼らにあたたかい援助の手をさしのべます。ある人物曰く、「千歳村連合地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。そして12人は晴れて郷土にもどり関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を記念として植樹した。今なお数本が現存しまもなく70年をむかえようとしている」「日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない。すべては未曽有の大震災と行政の不行届と情報の不十分さが大きく作用したことは厳粛な事実だ」
 なお烏山神社には、当時植えられた椎の木のうち4本が残り、参道の両側に高くそびえているそうです。(⑨p.50)

 こうして虐殺の嵐が吹き荒れた9月2日は過ぎていきました。
by sabasaba13 | 2017-10-03 06:23 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)
<< 『一日一言』 近江編(38):近江八幡へ(1... >>