関東大震災と虐殺 19

 9月3日、月曜日。雨。深夜。野重砲第一連隊第六中隊の兵士、久保野茂次は、日記にこう書いています。(①p.109~10)
 九月三日、雨、午前一時頃、呼集にて、また東京に不逞鮮人がこの機に際し非常なる悪い行動をしつつあるので(井戸に毒薬投入、火災の先だって爆弾投下、及強姦)等やるので、それを制動せしめるため、三八騎銃携行、拳銃等も実弾携行し、乗馬でゆくもの徒歩でゆくもの、東京府下大島にゆく。小松川方面より地方人も戦々きおきお(兢々)とて、眠りもとれず、各々の日本刀、竹やり等を以て、鮮人殺さんと血眼になって騒でる。軍隊が到着するや在郷軍人等非常(非情か)なものだ。鮮人と見るや者(物)も云わず、大道であろうが何処であろうが斬殺してしまふた。そして川に投げこみてしまう。余等見たの許りで二十人一かたまり、四人、八人、皆地方人に斬殺されてしまふていた。余等は初めは身の毛もよだつ許りだが段々なれて死体を見ても今では何とも思わなくなった。午後砂村より消防隊が、鮮人百名も一団でいて夜間になると不安で寝られず、爆弾等で放火等やるので、我々等の応元(援)をあをいできたので余の分(隊)等、野中上等兵以下拾二、三名で着剣して、消防隊の自動車で鮮人のいる長屋につき、すぐ包囲をし、逃ぐるものがあれば一発のもとに撃ち殺さんとためていたが、彼等一人として抵抗するものもなかったので、一発せずして一団をつづ(数珠)つなぎにして暗の中を在郷軍人等とともに警戒厳にして小松川につれゆき集(収)容し、余等分隊は東亜製粉会社に帰ったその夜は会社のコンクリート上に寝た。
 戒厳軍の進駐下に自警団の暴力が発生したことが、よくわかります。「不逞鮮人の討伐」という作戦下、戒厳軍が主導の地位にたち、警察・自警団・一般市民をその統率下において敵=朝鮮人の殺戮を行なったのですね。そう、これは市街を舞台とした「戦争」です。姜徳相氏の言を引用します。(④p.54~6)
 近代日本史上、沖縄を除いて日本本土が戦場になったのは関東大震災以外にない。下谷高等小学校の罹災児童がいちばん恐ろしかったことは反撃なき市街戦であった。

男子 朝鮮人109 火事51 地震49 旋風19
女子 朝鮮人140 火事68 旋風35 道路の雑踏17

 数字は天災より人災、つまりデマに狂った人殺し戦争が最大の恐怖であったことを示している。
 「若い朝鮮人の死骸が転がっていた。素裸にされて大の字に仰向けになって腹から腸がはみ出て血まみれになった手足には蝿と蟻がたかっていた。局部まで切断されていた。その側にはこういう制札が立っていた。『いやしくも日本人たるもの必ずこの憎むべき朝鮮人に一撃を加えてください』」(江島修 『血の九月』)
 これは戦争だ…そういう人びとの意識を如実に物語る会話が記録されています。9月3日、横浜市中村町(現横浜市南区)での民衆の会話です。(③p.26)
「旦那、朝鮮人は何ぅですい。俺ァ今日までに六人やりました。」
「そいつは凄いな。」
「何てっても身が護れね、天下晴れての人殺しだから、豪気なものでサァ。」
 "天下晴れての人殺し"、つまり相手が敵なら殺しても罪に問われない。まさしく戦争です。
by sabasaba13 | 2017-10-05 06:22 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)
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